賛同企業代表者 文化人 対談シリーズ
経済面コラム

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- 2023元日 文化人メッセージ -

盛田帝子

上賀茂の地で、三都の結節点
人や物、情報の磁場となった賀茂季鷹

盛田帝子
日本文学研究者

鴨川の東、神山を背にする上賀茂神社には、心地良い空気が流れていて、お参りをするといつもすがすがしい気持ちでいっぱいになる。その神社からほど近い社家町に、今から220年ほど昔、「雲錦亭」という別荘を建てて、人と人、人と物、人と情報を結び、江戸・京・大坂の三都を自由に行き来した歌人がいた。賀茂季鷹である。
季鷹は、代々、上賀茂神社にお仕えする賀茂縣主一族の山本家の跡継ぎで、12歳から17歳まで有栖川宮家に諸大夫としてお仕えし、当主の職仁親王から、当代一流の歌の指導を受けて、1772(明和9)年正月、19歳で江戸に遊学する。
江戸に着いた季鷹は、有栖川宮家の江戸の門人たちを束ねていた幕府御用達の呉服商、三島景雄を庇護者として、歌人としての活動を開始する。田沼意次が実権を握っていた安永・天明頃(1771~86年)の江戸では、武士や町人が担い手となり、当代職人の贅を尽くした作り物に和歌を添えていくつかの番とし、判者が勝負を決める「物合」という復古的な催しが流行していた。平安時代の宮廷での豪華絢爛な営為を再興したもので、長らく泰平の世が続いた江戸時代、経済の発展とともに成熟した江戸の文化が花開いた事例の一つだった。催しには大名や絶大な人気を誇る遊女まで参加していたが、景雄と共に、季鷹はその雅な王朝文化再興のブレーンの一人として活躍することとなる(下の写真は、季鷹が歌の判を行った物合「十番虫合」の一場面)。
江戸で多くの知己や蔵書を得て、家督を継ぐために帰京した季鷹が建てた雲錦亭は、邸内に上賀茂神社から流れ来る明神川を引き入れ、吉野の桜と龍田の紅葉を移植し、柿本人麿・山辺赤人の木像を祀った歌仙堂や「和漢の書籍数千巻」と言われた書庫のある、古今集仮名序の世界を可視化した理想郷だった。別荘には多くの歌人、文人、国学者たちが訪れ、書物や書簡などの情報が行き来し、季鷹は上賀茂の雲錦亭に居ながら、京・江戸・大坂の人や物・情報を結ぶ結節点として活躍することとなる。
雲錦亭を訪れると、今でも春には吉野の桜が開き、夏には明神川が涼しげな音を立てて流れてゆく。秋の清澄な空気の中での龍田の紅葉の紅さ、冬に降る雪の白さは美しい。にぎやかな江戸の町を離れ、京都の清らかな自然の中に身を置きながら、人や物、情報の磁場となった季鷹の生き方は、現代の私たちにも本当の豊かさとは何かを教えてくれるような気がする。

◉もりた・ていこ
1968年宮崎県生まれ。京都産業大教授。九州大大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。日本近世文学、和歌文学。著書に「近世雅文壇の研究―光格天皇と賀茂季鷹を中心に」(汲古書院)、「天皇・親王の歌」(笠間書院)、「文化史のなかの光格天皇―朝儀復興を支えた文芸ネットワーク」(共編)(勉誠出版)など。

ホノルル美術館所蔵「十番虫合絵巻」より