文化がつくる未来
- 2025元日 文化人メッセージ -
「あたらしいことは可能なかぎり、
だれかがやらねばならぬ」
松尾敦子
京都府立堂本印象美術館
主任学芸員
「真の芸術家は常に時代より先行すべきである。誰にでもよく分る作品が出来たときは、すでに自己の製作が時代におくれていると自覚して誤りはない」│京都出身の日本画家、堂本印象の言葉です。
戦時中の1943年に印象は、八坂から京都郊外の衣笠山の麓に引っ越してきました。平安時代、宇多天皇が炎天の夏に雪を眺めたいと所望し、山に白絹を掛けたことから、その名が付けられたという衣笠山は、王朝人に愛され、明治時代以降、山麓一帯に木島櫻谷(このしまおうこく)や土田麦僊(ばくせん)など数多くの日本画家が暮らしました。50歳を過ぎ、日本画の大家となっていた印象は、新天地衣笠において、残りの人生を自分のやりたい制作のために使いたいと、マネージャーの弟に告げたのです。
戦後、印象は抽象表現に挑み、新境地を開きます。70歳を越えても、芸術への探求心は衰えず、66年には自邸の隣に自らの作品を収蔵する堂本美術館(現・府立堂本印象美術館)を建設しました。美術館も自身の作品と考える印象は、建築家が提案した四角い建物を良しとせず、背後にそびえる衣笠山のなだらかな山容に呼応するかのように、流線形の大きな白い壁にレリーフ状の抽象的模様を表現し、随所に金色を施した前衛的な外観の建物を造り上げ、館内の装飾からインテリアに至るまで自らデザインしました。芸術性だけではなく、休憩するための椅子やスロープの設置など、来館者への細やかな心配りも見られます。
開館した当初、堂本美術館を特集したある新聞は、景観を無視した「京都にある悪建築」の一つに数えられるという東京の建築関係者の意見を載せています。印象は「あたらしいことは可能なかぎり、だれかがやらねばならぬ。この当然な、やるべきことをやったのに、世間はびっくりし、ケッタイだという。金閣寺をみたらいい。平等院の鳳凰堂でも、それができたときはケッタイだったにちがいない」と、穏やかな口調で一蹴しました。いずれ美術館が金閣寺や鳳凰堂などのように歴史的建造物になることを想定していたのでしょう。この言葉を受け、新聞は「モニュメントとして後世まで残りうるか…すべては歴史が決めるだろう」と締めくくっています。
今年は、堂本印象の没後50年を記念して京都国立近代美術館で大規模な回顧展が行われます。さらに翌2026年に、府立堂本印象美術館は開館60周年を迎えます。印象芸術の集大成ともいえる美術館は、衣笠山とも不思議と調和し、今では唯一無二の個性的な美術館として存在感を放っています。
◉まつお・あつこ
1971年神奈川県生まれ。京都市立芸術大大学院修了後、足立美術館、茨城県天心記念五浦美術館などを経て、京都府立堂本印象美術館に勤務。近代日本画の研究と展覧会を行う。専門は日本美術史。