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- 2025元日 文化人メッセージ -

筒井淳也

日本人にとっての「存続」という価値

筒井淳也
社会学者

現在、埋葬の形が大きく変わってきている。生前に一定額を収めれば永代供養をしてくれる共同墓や樹木葬が人気だ。「先祖代々」の家墓は、その代で墓じまいされる。永代供養を営む主体はさまざまで、宗教団体ではない公益法人も多いが、寺院もたくさんの永代供養墓を営んでいる。
永代供養型の埋葬は、「家」の代々のつながりを想定しない。永代供養を申し込む人の多くは、「子どもたちに負担をかけたくない」と考えている。供養してくれる家族や親族をあてにしないのが永代供養だ。
しかし、だからこそ永代供養は私たちに独特の安心感を与えてくれる。自分の姓を継ぎ、地元に住み続ける子孫が代々続くなど、現代日本では奇跡に近い。そんなあやふやな「賭け」をして家墓に埋葬され、やがて供養してくれる人がいなくなって無縁墓になってしまうくらいなら、いっそのこと世代を超えて存続する団体に頼る方が安心だ。
日本人にとって「家」とは、そもそもそのような「団体」だったことは、あまり知られていない。近世日本で確立した家制度では、血のつながった跡継ぎがいなければ、全く血がつながっていない他家からの養子を取ってでも家を存続させた。これは現代の会社に近い。
このような「家族」形態は世界でも珍しかった。中国の伝統社会では、血族が絶えれば家も絶える。兄弟間の平等意識が強く、家の財産はすぐに分割される。意外に思えるかもしれないが、そこでは家の存続は至上命題ではなかったのだ。
独特に発展した家制度の名残だろうか、日本人は、おそらく他の国の人たちよりも、「続くこと」「古くからあること」に重い価値を置いているように感じる。私たちが「老舗」という言葉に込める概念に対応する英語は存在しない。
日本人にとっての「存続」とは、決して血統が続くことではなかった。かつての家制度は、血統が絶えても存続するものだった。
家墓ではなく永代供養を望む人たちが増えてきたのは、永続するものへの希求が減ったからではなく、私たちがそれを望んでいるからこそなのではないか。もはや家族はあてにできない。家族よりも、もっと確実に「続く」もの、そしてできればこれまでも続いてきたものに私たちは引かれ続ける。
京都は、日本人にとって「古くから続くもの」の象徴だ。世代を超えて「続くもの」に魂のよりどころを見いだす人たちに、京都は何をしてあげられるだろうか。

◉つつい・じゅんや
1970年福岡県生まれ。立命館大産業社会学部教授。専門は家族社会学。一橋大社会学部、同大学院社会学研究科、博士(社会学)。著書に「仕事と家族」(中公新書、2015年)、「結婚と家族のこれから」(光文社新書、16年)、「社会を知るためには」(ちくまプリマー新書、20年)など。