賛同企業代表者 文化人 対談シリーズ
経済面コラム

日々の暮らしに「善」を追求し、自らの意志で生きる時代へ

- 2024元日 文化人メッセージ -

藤原芽花

国籍を、人種を、言語を超え
スポーツを通じつながり、支え合う

藤原芽花
パラアスリート

「なでしこジャパン」を目指すサッカー少女だった小中学生時代。高校の3年間は日本一を目標に掲げハンドボールに明け暮れる日々。幼い頃からスポーツは私の生活の中心でした。ところが大学2年の夏、突如、原因不明の病に侵され車いすユーザーとなりました。治療法が見つからず転院を繰り返し、少しずつ思うように動かなくなっていく体に驚きました。
しかし、障がいが私にもたらしたものは悲しみでも絶望でもなく「きっかけ」でした。私は障がいをおったことがきっかけとなり、パラスポーツと出会うことができたのです。
初めて競技用車いすに乗った時の、あの爽快感を忘れることはありません。車いすで地面を走ることがこんなに気持ちいいなんて、健常者の頃には知る由もありませんでした。新しい世界を知り、今度はパラスポーツが生活の中心となりました。一方で、以前と変わらない日常の中でも、これまで出会ったたくさんの人からの優しさに気付くようになり、今まで以上に幸せを感じるようになりました。
パラスポーツに魅了された私は、ハンドボール、ソフトボール、カヌーなどさまざまな競技にチャレンジしました。中でも私が夢中になったのはパラアイスホッケーと車いすバスケットボールでした。
パラアイスホッケーでは、唯一の日本人として多国籍の連合チームで女子世界大会に出場しました。パラスポーツ界では多くの競技で、女性の選手数が極端に少なく、苦労も多い中、世界の舞台で活躍する女性の姿を目の当たりにし、共に戦えたことにとても勇気づけられました。国籍を、人種を、言語を超え、私たちはスポーツを通して支え合い、つながっていることを実感し心から感動しました。
車いすバスケでは、持ち点制というルールの下、障がいの重さにかかわらず、選手がそれぞれの個性を生かし戦えるところにその魅力を感じています。自分の障がいと向き合いながら独自の強みを見いだすという面白さはこの競技特有ではないでしょうか。日の丸を背負って戦うチームの先輩方の背中に憧れ、いつかは追いつき、追い越せるように日々練習に励んでいます。
東京パラリンピックが行われていた3年前、私は病院のベッドで寝たきりで、パラスポーツとは程遠い毎日でした。パリ・パラリンピックが開催される今年、今やパラスポーツは私の生活の中心です。パリ・パラリンピックを通してパラスポーツやパラアスリートのさらなる魅力が世界中に伝わることを願っています。

◉ふじわら・めいか
2001年京都府生まれ。洛北高卒、佛教大3回生。高校からハンドボールをはじめ、3年夏はインターハイベスト8。21年車いす生活に。22年からパラスポーツに取り組み、ハンドボールは日本代表。同年5月に始めたパラアイスホッケーでは8月の国際大会で銅メダル。23年、女子車いすバスケットボールの強豪「カクテル」にも加入した。