日々の暮らしに「善」を追求し、自らの意志で生きる時代へ
- 2024元日 文化人メッセージ -
未知の小道がいざなう
「小さな歴史」
谷 徹也
歴史学者
数年前、四条烏丸の辺りに住んでいて、よく付近を散策した。細い小道を見つけては、「小さな歴史」を拾い集めるのが、ひそかな楽しみだった。
例えば、「了頓図子」。烏丸六角から西へ歩くと、ほどなく右手にあらわれる。「図子」は「辻子」とも書き、条坊制に由来する京都の正方形街区を貫通する形で、後から開かれた路地を指す。豊臣秀吉の時代に京都の都市改造が行われ、人口増加への対応策として街区を縦に二分して間口数を増やした結果、多くの小道が生まれた。
その「了頓図子」の中ほどに、「廣野了頓邸跡」の看板が立つ。小道の名称も、この場所に廣野了頓という町人の屋敷があったことに由来する。看板には、了頓邸に秀吉が訪れることもあった、と書かれている。ではなぜ、秀吉はここに足を運んだのだろうか。彼の居城としては聚楽第や伏見城が有名だが、さほど近いわけでもない。
出典とおぼしい「京羽二重織留」をひもとくと、訪問は姫路在城期と記され、天下統一以前、織田信長の配下だった時代の話のようだ。この頃、秀吉はまだ京都には自分の屋敷を構えておらず、了頓図子の西隣、三条町の伊藤吉次の屋敷を宿所としていた。そして、吉次は了頓と交友関係にあり、近所でもあったため、秀吉もしばしば了頓邸で茶の湯を楽しんでいたという。
さて、秀吉が間借りをしていた伊藤吉次は、二つの顔を持っていた。一つは、京都での秀吉の代理人だ。秀吉が不在の際に、上洛してきた大名や使者の接待を担当し、公家や寺社からの訴え事を仲介する役割も果たしていた。
もう一つは米商人。実はこの時代、三条町のすぐ北東には、三条米場という大きな米市場が存在した。現在でも「米場之町」を略した「場之町」という名称が烏丸三条に残されている。吉次は、秀吉の米や金銭の管理もしており、堺の小西立佐(小西行長の父)と肩を並べる存在だった。
廣野了頓や伊藤吉次といった有力町人たちは、茶や米を媒介として、政界にも影響力を有していた。また、了頓の屋敷には徳川家康や浅野長政のような武将だけでなく、古田織部や碁打ちの本因坊算砂などの文化人も訪れており、京都の文化サロンの一角を担っていたといえる。
このように、京都には「小さな歴史」の入口となる案内板や石碑があちこちに見え隠れしている。そして今日も、未知の小道が皆さんを誘っている。
◉たに・てつや
1986年生まれ。立命館大文学部准教授。京都大大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学。博士(文学)。2019年より現職。専門は日本近世史(特に豊臣政権論)。共著に「戦国乱世の都」(吉川弘文館)、編著に「石田三成」「蒲生氏郷」(戎光祥出版)などがある。