賛同企業代表者 文化人 対談シリーズ
経済面コラム

日々の暮らしに「善」を追求し、自らの意志で生きる時代へ

- 2024元日 文化人メッセージ -

戴 智軻

「走り」―日本人の時間感覚を
体現する

戴 智軻
社会学者

初秋の夕方、同僚との雑談。美しい花柄がちりばめられた和服が映る携帯の画面を差し出され「何の花かご存じ?」と問われた。花鳥風月に無頓着な私は首をかしげ「何でしょう?」と聞き返した。「フヨウです」と彼女は微笑み、季節よりも先に花模様を合わせて調度する和服談義を始めた。発音から「芙蓉」と表記される中国伝来の花だと察した。花模様まで見分ける「粋」の力を持ち合わせない私は、貧弱な植物の知識をたどりつつ、あいまいに相づちを打つのだった。衣替えだけでなく、日常生活全般において季節を先取りすることを意味する「走り」という表現を知り、その存在に魅了されている。
言語習得の理論では、ある臨界期を過ぎると、第二言語と母語の切り替えを無意識に行うことができるという。長らく日本に住むと「自分は何語でしゃべっているんだ」とはっとする経験もしばしばある。驚いたのは帰省した時、兄に「日本語の寝言がうるさい」と叱られたことだ。夢の中で“先走り”、私の口を突いて出た日本語は意識的だったか、無意識的だったか。しばし真剣に頭を抱えたものである。
日本語という「言語」に「夢中」なだけでは日本文化を深く理解することは難しい。なぜなら、言語を使う人々の歴史や伝統、習慣、感性、思考、感情もまた、文化を形成するものだからだ。私は文化の異なる二つの集団に同時に属し、そのいずれにも完全には所属することができないマージナル・ピープル(境界人)になりつつある。
同じ境界という意味から言うと、日本が長らく東西文明の接点にいるという事実によって、日本文化は常に大きな養分を得ているとも思う。「昔日の中国」が所々顔をのぞかせつつ、西洋文明の香りを程よく漂わせる京都はまさしくさまざまな時間や境界が縦横無尽に「走っている」街である。交錯する境界にいるからこそ、「境界人」の私は「走り」という言葉から、新しいことの到来を敏感に察知し、それを先取りすることを「粋」と見なす日本人の姿勢を感じ取り、京都に常に新鮮なまなざしを向けることができるのだ。
山本七平は「日本人は常にクローノス(時間)の鼻先を力一杯、力走し続ける」と言った。今ほど、日本人の先見性や創造性、「時代の先端を走る精神」を強く表現するこの「走り」という言葉が、「われわれ」にとって重要な意味を持つと感じることはない。日本で暮らした29年間は「日本の失われた30年」と重なる。再び時代や世界の最先端に立ち戻るためにも、日本人の時間感覚を体現するこの言葉を胸に、共に一歩先の時間を走ろう。

◉たい・ちか
1972年中国生まれ。京都外国語大国際貢献学部グロバール観光学科教授。上海外国語大日本語学部卒業。東京大大学院人文社会系研究科博士課程修了。2006年に博士号(社会情報学)取得。18年から現職。近年、主に中国人訪日観光客のディスティネーション・イメージの形成について研究を行う。 

作=戴 羽桐(タイ ウキリ)