文化がつくる未来
- 2025元日 文化人メッセージ -
民藝100年に寄せて
鞍田 崇
哲学者
20年ほど前の3月下旬、いかにも春めいた穏やかな昼下がりの話である。京都の北辺、岩倉界隈(かいわい)を散策していて、1軒の家と出合った。
そっとのぞき込むと奥の方には登り窯もある。いったいどういう方のお家なんだろう?
恐る恐る門を抜けて敷地に入る。「こんにちは」と呼び掛けるが誰も出てくる気配はなく、1歩2歩と石段を登っていって、ビックリした。玄関先でおばあさんが倒れている!「大丈夫ですかっ」と駆け寄ると、ウウーンと面倒くさそうに目を開けられた。どうやら日向ぼっこをするうち寝入ってしまっていたよう。見れば、ちゃんとござを敷いてもいる。ほっとするあまり僕はこう尋ねていた。
「ここ、誰のお家ですか?」
あんたが誰やねん? 問われたおばあさんは、口にこそ出さなかったが、さすがにそう思ったと、後にこの時のことを振り返って笑いながらおっしゃった。これが上田恒次邸との最初の出会いだった。おばあさんは恒次の妻のてる子さんだった。すでにご主人は他界され、独りで住まいされていた。
上田恒次は河井寬次郎門下として京都の民藝(げい)運動の一翼を担った陶芸家である。家屋も窯も彼自身の設計になり、修行を終え独立するに際して職工らと共に若干23歳で自ら施工したものという。この家との出会いが、僕に民藝の世界を開いてくれたのだった。いつしか分断されてしまった生活と仕事を再び一体とするべく、そのための場を自分の手で創り出す。それこそ、100年前の若者たちが、柳宗悦や河井らによって提唱された「民藝」から受け止めたものではなかったか。とするなら、民藝は未来への希望を見失いかねない現代の僕たちの灯になるものでもあるのではないか。そんなふうに思われたのだ。
それにしても、もとはといえば勝手に人の家に踏み込んだわけで、はじめて上田邸を訪れた日のことは回想するたびに冷や汗をかく思いがする。けれども、春うららかなその日の天気そのままに、同時になんとも幸せな気分にもなる。こうした出会い方を許してくれる何かがそこにはあった。その何かを見失わないことが、今なぜ民藝なのかを問う要ではないか。そんなふうにも思うようにもなった。
何かとは「いとおしさ」。夫とともに紡いできたささやかな日常を慈しむ、てる子さんのたたずまいが教えてくれたことである。2025年、民藝という言葉が誕生してちょうど100年となる。節目の年を迎えるにあたり、あらためて在りし日のてる子さんへの感謝の思いとともに、ご紹介させていただいた次第である。
◉くらた・たかし
1970年兵庫県生まれ。京都大大学院人間・環境学研究科修了。総合地球環境学研究所などを経て、2014年より明治大理工学部准教授。著作に「民藝のインティマシー『いとおしさ』をデザインする」(明治大学出版会、2015年)、「分離派建築会 日本のモダニズム建築誕生」(共著、京都大学学術出版会、20年)、「民藝のみかた」(監修・解説、作品社、24年)など。