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経済面コラム

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- 2025元日 文化人メッセージ -

隈 研吾

日本の建築
形なく、曖昧で開かれたもの

隈 研吾
建築家

最近、障子貼りを使うのが、すっかり怖くなってしまった。僕の設計する建築から、障子が消えつつある。子どもが乱暴に扱ったらすぐ破れるほどに弱くて、傷みやすく、汚れやすい障子という素材を使ったら、ネットで炎上したり、訴えられたりするのではないかという不安と恐れが、胸をかすめるからである。
少し前まではそんなことはなかった。大事に扱わないと1年でボロボロになるような弱くて頼りない素材を、日本人は大事に、大事に使い続けてきたからである。しかし、現代の建築物に要求される標準的な強さや耐久性の基準からすると、障子は建築材料として失格である。障子の薄い和紙だけではなく、体重をかければ折れ曲がってしまう細い木のフレームも失格である。日本の伝統的な木造建築は、かなりの部分が失格で、不良品で、訴訟の対象だということになってしまう。
少し前までの日本人は、生活のマナーをもって、そのような繊細で美しいモノたちを守り、メンテナンスし、伝え、継承してきたのである。
言い方を変えれば、日本建築というのは、建築というハードウェアと、それを扱い、メンテナンスするというソフトウェアの部分とが不可分の一体のモノとなっていたのであり、建築とはすなわち、その周辺のソフトウェアを含めた全体的、包括的なものだったわけである。西欧の建築が必ず形態を伴う、閉鎖的な物体であったのとは対照的に、日本の建築は形がなく、曖昧で開かれたものだったのである。
少し哲学的な言い方をすれば、そこでは空間と時間とが、スムーズでシームレスに接続されており、物質と行為もまた、境目がなくつながっていた。建築が凍り付いた死の領域に属し、そこに住み、それを使うというわれわれの領域は、死とは対照的な生の領域に属していた。日本では、死と生もまた同一平面上につながっていて、その境界は曖昧であったとも言えるのである。だから死は怖いものではなかったし、生もまたはかなく、永遠ではないことを、目の前の、風化し続ける弱く、美しい建築が教えてくれたのである。日本建築は人生の最高の教材であり、建築のおかげで、われわれは死におびえることなく、安らかに、つましく、毎日を生きることができたのである。
しかし、今や日本でも障子と図面に描いただけで訴えられ、損害賠償をしなければならない時代がやってきたのかもしれない。そこでは単に繊細で美しい建築が失われただけではない。もっと大きくて大事なものを、われわれは失ってしまったのである。

◉くま・けんご
1954年生まれ。90年、隈研吾建築都市設計事務所設立。慶應義塾大教授、東京大教授を経て、現在、東京大特別教授・名誉教授。50を超える国々でプロジェクトが進行中。自然と技術と人間の新しい関係を切り開く建築を提案。主な著書に「日本の建築」(岩波新書)、「点・線・面」(岩波書店)、ほか多数。25年3月完工予定の宮川町歌舞練場の設計を手掛ける。

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