賛同企業代表者 文化人 対談シリーズ
経済面コラム

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- 2024元日 文化人メッセージ -

木村英輝

日本のロック黎明期
ロックフェスは京都から始まった

木村英輝
絵師

1960年代半ばから70年、安保闘争が激しくなった。政治に無関心なノンポリ学生ばかりと思っていた美大にも、授業ができない雰囲気が漂った。寺山修司著「書を捨てよ、町に出よう」に誘発され、キャンパスでの集会を町に出てやろうと盛り上がった。
「反体制と思われがちな得体の知れない集会は、分かりやすいメジャーな会場でやるべき」と、68年に京都会館(現ロームシアター京都)で日本初のロックフェス「TOO MUCHトゥー・マッチ」を開催した。
スタッフだった照明作家・小松辰夫の手引きで、映像作家・宮井陸郎主宰の新宿「ユニットプロ」に集う美術学校「セツ・モードセミナー」の学生たちも参加した。解散したグループサウンズの「ザ・ダイナマイツ」のリードギター山口富士夫も連れ立って来た。彼は、後にロックバンド「村八分」を結成した。神戸から「ザ・ヘルプフル・ソウル」や「ジプシー・ブラッド」もやって来た。
アンプによって拡張された大音響のロックと美大生の自由な集会の合体が、日本初のロックフェスとなる。
そのプロデュースをした美大講師だった私が、アメリカの「ウッドストック」「オルタモント」に並ぶ野外ロックフェス「富士オデッセイ」の日本側のゼネラル・プロデューサーにと誘われた。本場アメリカのプロモーターから白羽の矢が立てられたのだ。彼らは「日本にロック・フェスをプロデュースできる人がいるか」と、世界を放浪する若者たちにリサーチし、京都会館の集会「トゥー・マッチ」に参加した若者たちが、私を名指ししたらしい。
当時、日本のポップスと言えば、水前寺清子や三波春夫。ローリング・ストーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンらがブッキングされた一大野外ロックフェス「富士オデッセイ」は、あまりに懸け離れた世界だった。
ホテルニューオータニのスイートルームでフェスの主催者と会うことになった。私と同い年、26歳のマイケル・グリーンは反戦弁護士で、事務所には入隊拒否のノウハウがたくさんあった。皮肉にも、戦争に行きたくない億万長者の息子たちを弁護することになり、大富豪になったと聞く。アメリカらしい話だ。
彼は私のロックフェスの体験談を聞き、大手広告代理店のプレゼンを投げ捨て、握手を求めてきた。日米のビジネス習慣の違いなどから幻のロックフェスとなったが、日本のロック黎明期において京都が大きな役目を果たしていたことの象徴的な出来事だった。

◉きむら・ひでき
1942年大阪府生まれ。京都市立美術大図案科卒業後、同大講師を務める。1960年代後半から数々のロックイベントをプロデュース。60歳で絵師に。手掛けた壁画は国内外で200カ所を超える。作品集に「生きる儘」「無我夢中」「LIVE」など。