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- 2026元日 文化人メッセージ -

北河大次郎

住民の誇りと愛情で創った疏水

北河大次郎
文化庁 主任文化財調査官

2025年8月、琵琶湖疏水が国宝に指定された。都市の生活を支える現役の公共施設としては、全国で初めての国宝である。
琵琶湖から山科、岡崎を抜け、鴨川に沿って伏見まで南下する長大な水路。疏水は市民にとって身近な存在であり、分線沿いの哲学の道しかり、風光になじむ京都の静穏なイメージを育む重要な要素となっている。
だが、その静かなたたずまいとは裏腹に、明治期の建設当時、この施設は社会を大いににぎわす存在だった。何しろ国家予算が7千万円、京都府の予算が55万円程度だった時代に、総工費125万円、1年平均で25万円を投じた大事業である。賛否両論が巻き起こるのも当然である。
ではなぜ事業は成功したのか。それは、京都府知事・北垣国道のリーダーとしての力量に負うところが大きい。彼は、府の直営で専制的な近代化を推し進めた前任の槇村正直とは異なり、住民組織や財界人と協力関係を築き、彼らの考えと資金を生かして事業に挑んだ。伝統や慣習を否定し西洋化に邁進した前任者の方針を改め、伝統と近代の融合にかじを切ったのも、自らの価値観だけでなく、京都の強みを生かし、住民の思いをつなぎ留める政治的意図が見え隠れする。その結果、工事費が途中で60万円から125万円に跳ね上がった時も、住民が自ら費用対効果を考え、身銭を切ることで、事業は頓挫せずにすんだ。今の公共事業の常識ではあり得ない展開である。
実は同じ頃、東京も大規模な都市改造に取り組んでいた。しかし住民の関心は薄く、それを嘆いた作家の幸田露伴は著書「一国の首都」の中でこう説いている。都市に対する住民の愛情なくして、よい都市は生まれない。それは一家の庭の良しあしが、主人の庭に対する愛の深さに左右されるのと同じであると。
これを踏まえれば、疏水事業では、明治維新後の衰退に危機感を抱き、町に対する誇りと愛情を持った住民が主体的に動く一方で、法や技術の専門家を抱えた行政が、「主人」ではなく「庭師」として振る舞った、ということになる。これは、明らかに行政主導だった東京とは対比的だが、京都にしてみれば町の復興や自治を担う町衆の伝統にのっとっただけのことかもしれない。京都が体現してきた公共の形である。
とはいえ、巨額の資金が動く大事業である。美談だけでは済まされない、利権絡みの裏話もあったことだろう。ただそうだとしても、さまざまな思惑が交錯する正邪美醜のかなたに、比類ない公共施設が創り出され、今も市民に親しまれている。つくづく教訓に富む文化財だと思う。

◉きたがわ・だいじろう
東京大工学部卒、フランス国立エコール・ナショナル・デ・ポンゼショッセ博士課程修了。フランス国博士(国土・都市計画)。文化庁で主に近現代建造物の文化財保護を担当。パリ大講師、東京大客員教授など歴任。主な著書に「近代都市パリの誕生」(河出書房新社、サントリー学芸賞)、「東京の美しいドボク鑑賞術」(エクスナレッジ、土木学会出版文化賞)。

南禅寺水路閣(京都市上下水道局提供)