賛同企業代表者 文化人 対談シリーズ
経済面コラム

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Practice of new life

- 2022元日 文化人メッセージ -

湯浅泰正

想像して、考えて、進めていく

湯浅泰正
京都成章高ラグビー部監督

亀岡高を卒業し、琉球大教育学部に入学したのは1982年。沖縄の本土復帰から10年の年だった。沖縄本島北部にはリゾートホテルもあったが、時代は観光地として発展する前夜。人情が厚い素朴な土地柄だった。米国の統治時代の「車は左側通行」の交通標識が残り、政治に特別な関心がなくとも、沖縄と戦争の歴史を意識することもしばしばあった。
保健体育学科の十数人との付き合いは楽しかった。友人らとウインドサーフィンも楽しんだ。最初に行った時は、真っ青な海をずいぶん沖合まで行った。一方、主将を務めたラグビー部では、練習に明け暮れた。ネット情報はまだなく、ラグビー雑誌を買ってきては部員同士で隅から隅まで読み、練習や試合で試行錯誤を続けた。私の指導者としての基礎は、この時代にできた。分からないことだらけでも、想像して、考えて、進めていくやり方が身に付いた。
米軍チームとも対戦した。相手は手足が長く、「抜けた」と思ってもタックルされることも。一種の国際試合だ。ノーサイドの精神で、試合後やクリスマスには米軍チームからダンスパーティーに招かれた。彼女同伴がルールだったので、即席のカップルで参加したのも懐かしい。
学生の半分は沖縄出身、残り半分は本土からで、九州出身者が多かった。ひとり京都弁で目立ち、「おもろいやつ」と思われたのだろうか、教授から知人の子息の高校受験の家庭教師を頼まれた。父が園部高などでバスケットボール部の顧問を務めた教師で、私も体育教師を目指していた。琉球大は、沖縄県で唯一の国立大としての存在感があった。家庭教師を機に、指導や自分自身に、少しずつ自信が持てるようになった。
カルチャーショックで始まった沖縄の暮らし。骨付き肉のソーキそば、ゴーヤーチャンプルーをおいしいと思うようになった。青色や黄色の熱帯魚も揚げるとおいしい。独特の香りの泡盛は、今では好きな酒の一つだ。
2022年は、沖縄の本土復帰から半世紀。沖縄と私の縁は、今も続く。部員たちの努力で京都成章高ラグビー部が全国大会に出場するようになり、私も指導者として沖縄の皆さんにも認めてもらえたのだろうか。招待され、沖縄県選抜チームと試合ができるまでになった。全国大会初出場の時の主将で、京都市立洛南中のラグビー部監督・井口隆路さんのように、指導者になる教え子もいる。沖縄の着実な歩みは、指導者としての私の歩みとも重なるように感じている。

◉ゆあさ・やすまさ
1964年亀岡市生まれ。亀岡高でラグビーを始める。87年から京都成章高の保健体育科教諭。89年ラグビー部監督に就任。2001年以来、全国大会に14度出場。21年は準優勝。