賛同企業代表者 文化人 対談シリーズ
経済面コラム

新たな暮らしの実践へ

Practice of new life

- 2022元日 文化人メッセージ -

矢野裕子

気になることを思う時間は
楽しくもあり苦しくもあり

矢野裕子
数学者

数学を続けてもう20年以上になる。数学者と名乗ると数学にまつわる小咄をたくさん知っていると思われるらしく、そういう話への期待を持たれてしまうようなのだが、私はその手の話をほとんど知らないし、実のところあまり興味がない。数学は難しくてカッコいいから、数学をやろうと思った。数学を続けているのは気になるからで、続けられる環境にいるのは運が良かったからだろう。
私が数学をやっている動機は“気になるから”である。数学の本や論文を読めば必ず気になるところがある。なぜそうなるのか、何のためにそうするのかなど、気になることだらけだ。だから考えてしまう。結局のところ、その繰り返しを長年続けているに過ぎない。小説の続きが気になって徹夜して読んでしまうとか、「推し」が気になるからずっと見てしまうとか、そういうのと同じだ。気になることを思う時間は楽しい。納得できる筋道が立てられたときはすっきりするし、思い付いた方法がうまくいったらうれしい。失敗すると悔しい。でもそれも考える過程は楽しかったりする。ああでもない、こうでもない、と考えるのが楽しいのだ。
と、少々カッコつけてみたが、実際は思考を楽しむ段階に至るには結構時間がかかるもので、それまではひたすらのたうち回っているだけである。大体、数学の本や論文を読んでもすぐに理解できることはあまりないのである。ほぼ、分からない。分からないので途方に暮れる。悪態もつく。「ハア?マジで意味分からん」とか何とか、いろいろ言うらしい(夫の観察による)。そして逃避する(散歩とか昼寝とか読書とかゲームとか推しとか)。が、やはり気になるので、しばらくすると再びトライすることがある。何度かこういうのを繰り返して、ようやく、少し見えてくることがある。そうしてやっと考えることができるようになるのだ。ここまで来てやっと考えることを楽しむことができる。それまでは、まあ大体、しんどい。
そういうわけで、しんどいことを乗り越えて楽しいことにたどり着くためには、大層時間がかかる。それに気力と体力が要る。本人はしんどい思いをしているのに、傍から見るとただボーっとしているか遊んでいるかイライラしているようにしか見えないのも困ったところだ(本当にボーっとしたりしているだけのときもあるけど)。本来の仕事を遂げるために、一見すると意味のないようなことも、私たちには必要なのだ。

◉やの・ゆうこ
1977年群馬県生まれ。京都産業大理学部教授。99年お茶の水女子大理学部数学科卒業。2005年同大大学院人間文化研究科博士後期課程複合領域科学専攻修了。博士(理学)。専門は確率論。お茶の水大、立命館大、京都大での研究員、助教を経て、12年京都産業大理学部准教授、18年より現職。