新たな暮らしの実践へ
Practice of new life
- 2022元日 文化人メッセージ -
新しさはけったいなものに宿る
村上 久
比較集団行動学者
新しいことが起こるとはどういうことか。このことを考える上で、「けったいな」(標準語で「おかしな」)がヒントになるかもしれない。「けったいな」には「笑い」と「不気味さ」という二つの意味があり、身近でかつ意外性があるようなときに使われるが、このチグハグさには何かが生まれる気配が感じられる。
ベルクソンによると滑稽なものに対する笑いは、反復的であったりぎこちなかったりする機械的な振る舞いを自然な振る舞いへと連れ戻す社会的機能を有する。誰かが小石につまずいて転んだとき人は笑うが、つまずいたこと自体を笑うわけではない。普通なら避けられるはずの小石を見過ごし、自動人形のように型にはまって歩き続けたことを笑うのだ。さらに、その自動人形に至る過程として例えば、ある種の流行などの社会的文脈が反復によって固化し鋳型となりそれに型取られた振る舞いを、人は笑う。型はそもそもものごとの意味を人と共有するという肯定的な機能を有する。とはいえ、型が不変ならば時代や環境の変化に対応できないだろう。笑いは、型の中のものごとの凝り固まった関係に「スキマ(遊び)」を生じさせるといえる。フロイトによると不気味さは、単に馴染みないものではなく、滑稽さと同様に反復を契機とする。例えば、街の中で何度も同じ人とすれ違うとき、その人を何度も同定しながらも、型が定まらない際限のない意味付けをしてしまう。そのように、反復するものがはまり込む型が作られず、何者かが絶えず外から侵入してしまう状況にあるとき、不気味さが生じる。これらに対しジリボンや原章二は、実は笑いと不気味なものはコインの裏表のような関係にあり、一方が欠けると他方もあり得ないことを指摘する。二つが同時に成り立つとき、滑稽さは笑いによって遊びに開かれ、そこに何かがやってくる。型は宙づりにされ、意味を与える文脈は一義的に定まらず、型にはまった要素からは生じ得ない新たな意味が立ち上がる。自動人形は、実は転ぶ演技を練習する役者であったかもしれない。何度もすれ違う他人を幽霊であると突然に意味付けする。そのような想定外の解釈にさえ閉じられ、かつ開かれる。
何気ない日常に大切なものを見つけるとか、そういうきれいな話ではない。重要なことは、身近なものの中にも思いがけない異質なものが潜んでいることに気付き、思ってもみない遠くに起源を持つものとこの私が実は関係していることに気付くことではないか。そうしたことを通して、はじめて新しいとは何かを考えることができるに違いない。
◉むらかみ・ひさし
1987年大阪府生まれ。京都工芸繊維大助教。神戸大大学院修了後、東京大特任助教などを経て、2021年より現職。ミナミコメツキガニ、オキナワハクセンシオマネキ、アユ、ヒトを対象に、群れ行動、探索行動、ナビゲーションに関する実験と計算機モデル構築を行う。21年、歩行者の動きの読み合いと集団形成の関係を調べた同氏らのチームがイグ・ノーベル賞を受賞。