新たな暮らしの実践へ
Practice of new life
- 2022元日 文化人メッセージ -
生活の中で大切にされている
目に見えぬ存在
池亀 彩
社会人類学者
職業柄、どこに行ってもインドを見つけようとしてしまう。京都でも同様である。そして京都にはインドがやたらとある。
三十三間堂に行けば、古代のインドの神々が守護神として鎮座しているし、仏教を通じて入ってきたであろう「インド」が地名として至る所に残っている。北野天満宮の牛たちを参拝客がなでている様子など、シヴァ神の乗り物である雄牛(ナンディ)を祀る姿となんら変わらない。
ただ目に見える事物や慣習だけではなく、目に見えない世界の在り方もなんだか似ているのだ。京都には神様、仏様、怨霊様、動物様、神話の世界の方から、過去に実在した偉い人、そして何十億年後かに私たちを助けるためにやってきてくれる方まで、時空を超えたさまざまな存在が〝ギョーサン〟生きていらっしゃる。インドも同じである。そして見えないけれど、〝ギョーサン〟いらっしゃる方々を喜ばせたり、なだめすかしたり、食べ物を差し上げたり、きれいにしてあげたりする作法を京都の人もインドの人も身に付けている。お寺や神社だけでなく、道端の小さな祠、至る所で私たちを見守っているお地蔵さん、そして個人の家の中にもいらっしゃる、そういう見えない存在が生活の中で大切にされているのだ。
〝ギョーサン〟いらっしゃる方々は、どうも近代的にきっちり分けられた宗教という枠組みにはあまり関心がないらしい。インドでも同様だ。外から見れば異なる宗教や宗派に属している人でも同じ聖人の祠にお参りすることはよくあることである。同じ聖人をイスラーム風に呼ぶかもしれないし、ヒンドゥー風に呼ぶかもしれない。庶民にとってはそんなことはどちらでも良いのだ。何か力を与えてくれるかもしれない、望みを叶えてくれるかもしれない。そんな時にその力の源がどんな名前でもあまり関係ない。
目に見えない世界には、こうしたさまざまな存在が〝ギョーサン〟いらっしゃるわけだから、さぞかし騒がしく落ち着かないに違いないとも思うのだが、時空を超えた、目に見えないけどここにいらっしゃる方々の存在を感じると、不思議なことにわれわれの生きている世界の喧騒が退いていき、静寂な時間に溶けていくような感じがする。
京都は近代都市でありながら〝ギョーサン〟いらっしゃる方々も永劫変わらず存在している稀有な都市である。私は無神論者のぶっきらぼうだが、今年もお気に入りのお地蔵さんの前に立ち止まる時間をつくって、手を合わせてみようと思う。
◉いけがめ・あや
京都大大学院アジア・アフリカ地域研究研究科准教授。早稲田大、京都大大学院、英国エディンバラ大大学院などで学び2021年10月より現職。専門は社会人類学、南アジア研究。日本語での著作に「インド残酷物語 世界一たくましい民」(集英社新書)がある。