賛同企業代表者 文化人 対談シリーズ
経済面コラム

次世代へ、美しい日本を

Beautiful Japan. To the next generation

- 2021元日 文化人メッセージ -

湊長博

ありがたい天の思し召し

湊 長博
京都大学総長

私が地方から出てきて京都で暮らすようになったのは、18歳の春である。時まさに大学紛争の真っただ中で、東大が突然入学試験の中止を発表したので、急きょ京大に入学することになった。その後よく、もしあの時東京へ行っていたらどうなっていたと思うかと聞かれ困ったものだが、今では躊躇なく「ありがたい天の思し召し」と答えている。
最初の下宿は百万遍かいわいで、古塀で囲まれただだっ広いお屋敷の筋向かいだった。後にこれが、国の重要文化財「清風荘」だと知ることになる。元来は江戸期の徳大寺家下屋敷で、住友家により西園寺公望公爵の別邸として整備され、1944年に京都帝国大へ寄贈された。七代目小川治兵衛の手による庭園は今も見事だが、ここで公望公が京都帝国大構想を練ったと知ると感慨もひとしおである。
その後、冷泉通疏水沿いのアパートに転居した。隣は広い疏水だまりで、何だろうと思っていたが、後で大正期に作られた夷川水力発電所だと知った。琵琶湖疏水は禁門の変から維新以後衰退した京都再興のため、当時の北垣国道知事が、工部大学校(現・東大工学部)を卒業したてで弱冠21歳の田辺朔郎を主任技師に招いて行った大事業である。田辺はその後アメリカ留学で水力発電技術を学び、疏水にわが国初の事業用水力発電所・蹴上発電所を作った。後に田辺は京都帝国大工科大学(現・京大工学部)長となる。
学生時代を含め30年以上、私は近衛の医学部構内で過ごした。その北側は、東一条から鴨川に至る京都にしては珍しい斜道に面している。面白いことに、北の京大農学部横からも似た斜道が北白川に向かって伸びており、京大本部構内を挟んでつながっているようにイメージされる。事実これは京都七口の一つ荒神口から近江に至る室町期からの古道「志賀越道」の一部であることが分かった。名誉のために言っておくと志賀越道の分断は京大のせいではなく、その前の尾張藩下屋敷によるものらしい。
最近週末は、妻と長い散歩に出掛ける。目的地を決めず「名所」を避けて疏水沿いの時には道なき道を歩くが、そのたびに新発見がある。京都には千年の歴史と市井の人々の生活が今でも街中にひっそりと息づいている。こんな街は世界でもそうはあるまい。運動不足のストレスフルな生活を送っている身には、体にはもちろん精神衛生上も実に良い。まさに「ありがたい天の思し召し」であり、今となっては京都以外で暮らすことなど想像できないし、したくもない。

◉みなと・ながひろ
1951年生まれ。医学博士。専門は免疫学。75年京都大医学部卒。92年京都大医学部教授。2010年以降、京都大医学研究科長・医学部長、同理事・副学長、プロボストなどを務めた後、20年10月より現職。免疫細胞生物学の多彩な基礎研究を展開、本庶佑教授の共同研究者としてがん免疫療法の開発に貢献。

「清風荘」(重文)