賛同企業代表者 文化人 対談シリーズ
経済面コラム

次世代へ、美しい日本を

Beautiful Japan. To the next generation

- 2021元日 文化人メッセージ -

佐伯啓思

「ゆく河の流れ」が運ぶ無常

佐伯啓思
思想家
京都大学名誉教授

新型コロナウイルスのために「巣ごもり」を強いられた昨年は、ほとんど季節のめぐりも感じられないままに過ぎた。人の体が、大気や食料を出し入れすることで自然とつながって生命を得ているように、人の精神もまた、季節の変化や山川草木といった自然に触れるその感触によって生命を得ているのであろう。だから、昨年の「巣ごもり」がわれわれの精神から活力を奪い取るのも当然のことだった。
季節の変化は、目を楽しませ、肌で触れる外界の感触を通して、片時もじっとしていない時の移ろいを実感させる。しかも、昨年は、コロナのおかげで、なじみの店がなくなり、街を歩いても閉店の知らせが結構目についた。時は確実に風景を変えている。
日本人の心情の端的な表明を、あのあまりに有名な「方丈記」の出だしに見る人は多い。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく留まりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」
鴨長明がこの文章をしたためた時代は、平家の滅亡から源氏政権の混乱の中で、戦乱、疫病、地震など、人為の騒擾と天変の地異が幾重にも重なり、誰もが明日の命も知れずという時代であった。生きるということは常に死を覚悟する時代であった。とても、四季のめぐりを味わうなどという時代ではなかった。だが同時に、これはまた藤原定家が新古今集を編纂した時代でもある。定家の代表歌に次のものがある。「見渡せば花ももみじもなかりけり、浦の苫屋の秋の夕暮れ」。
「花」と「もみじ」が同時に見られるわけはないので、これは一種の抽象的な歌ともいえよう。ここには四季の移ろいはない。移ろいを超えたところにある何か恬淡とした静寂が「秋の夕暮れ」と表現されているように思われる。コロナが一息ついた(と思われた)昨秋の京都は、一気に人が押し寄せて喧騒の中にあった。「秋の夕暮れ」どころではない。「よどみに浮かぶうたかた」が元気が良過ぎて「ゆく河の流れ」が運ぶ無常など味わうべくもない。鴨長明の時代の「うたかた」がどうだったのかはともかく、彼は自発的に「巣ごもり」を選んだ。完全自粛である。それは「ゆく河の流れ」に浮かぶわが身の無常を知るためであった。だがその長明も最後に書いている。「巣ごもり」しても、心は汚れきっており、妄心によって狂ってしまったのだろうか、と。誰でもそうであろう。だが、それでも「ゆく河の流れ」の無常を感じ取っていたことは間違いなかろう。無常感もまた現代日本人の「忘れもの」の一つかもしれない。

◉さえき・けいし
1949年奈良市生まれ。京都大こころの未来研究センター特任教授。著書に「西欧近代を問い直す 人間は進歩してきたのか」「経済学の犯罪 稀少性の経済から過剰性の経済へ」、近著に「近代の虚妄」「経済学の思考法」などがある。また、雑誌「ひらく」の監修を務める。