賛同企業代表者 文化人 対談シリーズ
経済面コラム

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- 2021元日 文化人メッセージ -

岸 博実

「ともに生きる」地図のぬくもり

岸 博実
日本盲教育史研究会事務局長
京都府立盲学校非常勤講師

かつて「京の三イン」を称える童歌があったそうです。知恩院・インクライン・盲唖院の「三つのイン」です。
盲唖院は目の見えない子や耳の聞こえない子の通う学校として、1878(明治11)年に開設された京都盲唖院を指します。古河太四郎が初代院長となり、槇村正直知事が「日本最初盲唖院」と誇りました。今の京都府立盲学校と聾学校のルーツです。
2018年、両校に伝えられてきた文書・教具・生徒作品など3千点が、「京都盲唖院関係資料」として国の重要文化財に指定されました。近代教育資料としては3番目、大学以外の学校の所蔵としては初の指定です。
古河太四郎は、維新後に待賢小で教員をしていた時、この教育に着手しました。点字も手話もない時代です。盲児の背中や手のひらに指先で字を書いて教え、木や紙に漢字・仮名を凹凸でかたどって触って読めるよう工夫し、聾児のために、指の形などで会話する方法「手勢法」も発見します。
江戸時代から盲人の適職とされてきた鍼灸や箏に加え、鳩居堂、島津製作所などの協力を得て職業教育の幅を広げました。新島襄は生徒の保証人になりました。日出新聞(京都新聞の前身)も盲唖院への理解を広める記事をしばしば載せ、多くの町衆が寄付に協力する土壌を耕しました。
古河先生は、「盲唖もまた人なり」と唱え、さらに鋭く、「盲人・唖者に教育を行わないのは社会の罪だ」とも述べました。1906(明治39)年には、文部大臣に宛てて「盲・唖教育の義務教育」化を要望する建議にも加わりました。まさに特別支援教育の水路を切り開いた人です。
重文に指定された教具の中に「京都市街之図」があります。1879年に彫刻家に依頼し、縦132㌢、横94㌢で、京都の街路が表されています。鴨川はやや凹んでおり、東西南北に走る大路・小路は凸線に彫り出されています。有名な寺社や裁判所、郵便局、京都駅などが大きな鋲で示され、小学校の所在地には小さな鋲があります。史跡と当時の官公庁、さらに生徒それぞれが住む校区まで学べる地図でした。
主に「目の見えない生徒が触って読める」ことを目指した地図です。盲生たちが繰り返しなぞって通学路も覚えたのか、表面がつやつやしています。耳の不自由な生徒もこれを使って勉強したそうです。ハンディの有無をも超えた「ユニバーサルデザインの考えが芽生えていた」と言えそうです。
世界に1点しかないこの地図のぬくもりに指を添わせながら、およそ140年も前に育ち始めた「ともに生きる」願いを受けとめ、根付かせていきたいと思う春です。

◉きし・ひろみ
1949年島根県生まれ。京都府立盲学校に長く務め、盲教育史の研究に従事する。2018年の「京都盲唖院関係資料」重要文化財指定の調査に協力した。著書に「視覚障害教育の源流―京都盲唖院モノがたり―」(明石書店)、「盲教育史の手ざわり―『人間の尊厳』を求めて―」(小さ子社)。

「京都市街之図」