賛同企業代表者 文化人 対談シリーズ
経済面コラム

次世代へ、美しい日本を

Beautiful Japan. To the next generation

- 2021元日 文化人メッセージ -

神居文彰

傷つきながらも生き続ける
行き過ぎた断捨離は悪

神居文彰
平等院 住職

違うものと考えた方がよい。
その時の願いであり、好ましいものばかりではない。思いが形となったもの、大切に守られ用いられてきたもの、それを人は文化財と呼んでいる。人の営みや文化が「人格」を持ったものと言い換えられるだろう。その文化財は私たちに多くのインスパイアを与えるが、そのものが声を発することはない。だから私たちは耳をそばだて、声なき声を聞く必要がある。それが保全であり修理・修復を伴う。好嫌でも快不快でも美醜を求めるものでもない。人に接するようにそのもの固有の個性を見極め大切にするのである。
世界遺産の考え方に「一特定の時代、特定の恣意によって変えないこと」がいわれるが、教育学でいう対人関係と同じである。その意味で、対話を拒絶し一方的に相手を非難する「キャンセル・カルチャー」は、他者が自身と「異なる」「存在である」という自明の理を無視した幼稚な行為といってよいし、文化財にとっても同じである。
しかし、現状を極力変えないということは、あらゆる事象が「変化する」中で最も困難な現実でもある。文化財は、そこにあるだけで「傷つき」、変化しながら私たちにその個性をプレゼンし続けている。公開や活用、これまでの維持管理や過去の修理ですでに変化した部分もあり、木々のように成長しながら存在する天然記念物もある。だからこそ、まず調査検証、修復法の「実験」などが必要となり、劣化要因となる素材や変化に対処する場合、さらに現状材での維持が不可能な場合にのみ、痕跡を残しながら変更を認める。文化財修復の出来不出来は、工程監理・材料確保・吟味・精度・納品時期全てが問題となり、修理が完遂した時点で劣化が始まる。つまりメンテナンスが開始されなくてはならない。
不要なものなどない。私すら何も見えなかった板面から平安絵画を発見、鉄器から金を発見している。残すからこそ出合えるのである。行き過ぎた断捨離は罪悪でしかない。
先日、古書店で1976(昭和51)年「週刊少年チャンピオン」46号を見つけた。藤子不二雄「魔太郎が来る!!」最終回の前週話が掲載されている。本編には全く関係ないストーリーで、単行本からも一切封印された藤子不二雄両氏が壮絶ないじめを受けていた話である。子どもたちのいじめの認知件数は5年連続で過去最多を更新した。人が生きる文化全体に大きなきしみが生じている。傷つきながら生きるのはつらい。そのままを守るという「共助」を私たち自身が行動すべきである。

◉かみい・もんしょう
1962年愛知県生まれ。91年大正大大学院博士後期課程満期退学。93年より現職。美術院監事、国立文化財機構運営委員、埼玉工業大理事などを務める。著書に「いのちの看取り」「臨終行儀―日本的ターミナル・ケアの原点―」「平等院物語ああ良かったといえる瞬間」など。約30年平等院のさまざまな修理に携わる。

「46年振りのハロウィン満月。鳳凰と鬼を照らす」(筆者撮影)