賛同企業代表者 文化人 対談シリーズ
経済面コラム

次世代へ、美しい日本を

Beautiful Japan. To the next generation

- 2021元日 文化人メッセージ -

赤坂憲雄

ただ、忘れないために

赤坂憲雄
民俗学者

分かってはいたことだが、物忘れが激しくなっている。とにかく、右や左にわずかでも首を傾げた瞬間に、喋っていたことや考えていたことを忘れる。同僚の言語学者があるとき「いや、忘れるのも悪いことばかりじゃないですね」と話しかけてきた。90歳を超えた父親が、まるで記憶のぜい肉でも削ぎ落とすように、いろんなことを忘れてゆく、いよいよ息子のことすら分からなくなってきた、それを眺めていると、こうやって現世のこと一切を忘却して、身軽になってあの世へ旅立ってゆくんだなと、なんだか、それもいいな、と。そうして、いたずらっぽくほほ笑んだことを思い出す。
とはいえ、きっと、世の中には忘れていいことと忘れてはいけないことがある。東日本大震災から10年の歳月が過ぎて、また「3・11」がやって来る。いろんなことがあったはずなのに、多くを忘れてしまった。それでも、海辺の被災地をひたすら歩き続けた日々のことは、驚くほどに記憶が鮮やかだ。しかし、そこで目撃したはずの風景のほとんどは、もはや上書きされて、すっかり消え失せている。自分で撮った1万枚のデジタル写真の中には、生々しい風景のかけらが詰まっているが、それすら次第にセピア色になり遠ざかる。
「あの震災によって、とりわけ原発の爆発事故によって、日本人はみな傷ついたのだと思います」そうつぶやいた人がいた。なにしろ、安全と安心を高らかに謳われていた原発が、次から次へと爆発したのだった。その瞬間に立ち会うことを、誰もが強いられたのだ。その映像は今も目に灼き付いている。しかも、原子炉建屋の中で何が起こっているのか、それを、明晰な言葉で説明してくれる科学者は、一人として存在しなかった。奈落の底にでも突き落とされたような、それなのに、顔をこわばらせて笑うしかないような、そんな残酷な宙づりの気分は初めての体験だった。
だから、みんなまとめて忘却することにしたのだ、と思う。ぼう然としながら、したたかに傷ついていることから逃亡しなければならなかった。なにしろ、そこには手に負えない怪物が赤茶けた血を垂れ流し、のたうち回っていたのだから。なかったことにして、まとめて忘却し、ついでに「アンダーコントロール(制御されている)」などという呪文を、見事な嘘っぷりを知りつつ、心の内では嘲けりさえしながら、受け入れた。「共犯幻想」なんて言葉がよぎる。忘れそうだから、書き留めておくことにした。正月から、悪しからずご容赦を。

◉あかさか・のりお
1953年東京都生まれ。学習院大教授。専門は民俗学・日本文化論。東北学を掲げて、地域学の可能性を問い掛けてきたが、東日本大震災を経て、東北学の第2ステージを求めるとともに、武蔵野学を探りはじめている。著書に、「東北学/忘れられた東北」(講談社学術文庫)、「性食考」「ナウシカ考」(岩波書店)など。