■基調提言
日本人が忘れかけていた手作りの暮らし
井上章一氏(国際日本文化研究センター 副所長)
他者にとらわれない独自の豊かさの軸を持つ
通崎睦美氏(木琴・マリンバ奏者)
井上◉上海では、従来の上海語を話す人が減り、北京語が席巻しています。ビジネスチャンスを求めて中国全土、あるいは海外から集まってくる人たちの多くは共通語として北京語を使うからです。急激な経済成長が地域固有の言語を追いやるのなら、関西経済の活性化はボチボチでいいのかもしれません。
明治以降、日本の近代化・国際化の窓口が東京に移った影響は計り知れません。祇園で芸妓や舞妓を見た外国人観光客が口にするのは関東流の「ゲイシャ」です。関西で「きいひん」「けえへん」だった「来る」の否定形を、カ行変格活用をたたき込まれた世代は、「こうへん」と言います。言語学的には興味深い変化ですが、一抹の寂しさも覚えます。
私が譲れないのは「七」の読み方です。地元では、七条、上七軒を「ひちじょう」「かみひちけん」として親しんできたのに、今や電車に乗ると「しちじょう」とアナウンスされ、街で見かける地名のローマ字表記も「Kamishichiken」です。四条との混同を避け、七条を「ななじょう」と呼ぶところも出てきましたが、地名が軽んじられているような気がしてなりません。
通崎◉京都生まれといっても、うちはまだ私で4代目です。家には、丁稚だった祖父が初めて足袋をはくのを許されたとき記念に撮った写真が残っています。主人の許しがないと足袋もはけない時代があったことを、私はその写真から知りました。現代流に言ってしまえば格差社会ということなのでしょうが、うちでは、己の立場をわきまえて生きていくことが大切だと教えられて育ちました。
井上◉私は子どものころ長屋住まいだったので、1960年ローマ五輪のテレビ中継は大家さんの家で見せてもらいました。電話もよく借りていましたが、好意に甘えることを屈辱とは思いませんでした。けれども、みんなが身の程をわきまえた暮らしを守ったら、テレビや電話機の国民的な売り上げはありえず、戦後日本の高度成長はなかったでしょうね。
通崎◉着物でも、生地を染めるところからの誂えをしていた時代には、お金があっても依頼主に教養やセンスがなければ、いいものは出来上がりませんでした。機械化・工業化が進み、センスはともあれお金さえ出せば誰でも入手できる製品が増えた。「お金持ち」が、わかりやすくなったということでしょうか。それで、働いて収入を増やそうという張り合いも生まれたのかもしれません。
井上◉家造りも同じです。数寄屋建築の名工・中村外二棟梁(故人)に家を建ててもらうのは無理でも、住宅メーカーなら手が届くかもしれないと考えるようなものですね。日曜大工が日常的な欧米では、自宅を改装したり家具を作ったり、もっと気軽にものづくりを楽しんでいます。日本では、ハウスメーカー住宅が普及しすぎたおかげで、手作りの楽しみが忘れられているのかもしれません。
通崎◉私は倉庫として手に入れた自宅近くの長屋を改修しました。たまたま近所で大正期の建物が解体されると知り、もったいないと建具や部材を譲っていただいたので大々的な工事になりました。工事を請け負ってくれたのは、芸大の美術学部を出た友人たちです。長い工事期間、作り上げる過程を存分に楽しみました。工事中からご近所とのコミュニケーションの大切さも実感しました。
井上◉残念ながら、通崎さんが持っておられる人の輪のようなものを現代人の多くは持っていません。今はインターネットがあるとはいえ、人材探しからするとなると、心と時間にゆとりがある人でないと楽しむところまでいかないでしょう。
通崎◉確かに、誰にでもお勧めできることではありません。実は、分けていただいた建具は長屋には立派すぎて、結局は建具に合わせて家を造り直しました。木製なのでアルミサッシと比べると気密性や防犯面でも劣ります。思い入れがなければ、できないことでしょう。
井上◉イタリアのフィレンツェ市庁舎(ヴェッキオ宮殿)は13世紀に建築され、現在も市庁舎として使われています。維持管理には相当費用がかかるはずなのに、市民の理解が得られています。京都も含め、日本とはまったく違います。
通崎◉義務感だけでは納得できないことも、すてきとか、面白そうといった感性に響くものがあれば、共感を得やすいのかもしれません。私は会社勤めしていないので、固定収入も将来の保証もありません。それを不安といってしまえばそれまでですが、気分的には豊かなつもりです。他者にとらわれず、自分独自の豊かさの軸をつくっていくことが暮らしを楽しむコツなのではないでしょうか。
井上◉日本はこれからさらなる高齢化社会を迎え、余暇を持て余す人で溢れます。彼らは、その志さえあれば、自分の暮らしを自分で設計することができるでしょう。これまでの日本人が忘れかけていた手作りの暮らしが、再び戻ってくるかもしれません。京都がその良いお手本になればいいと思います。
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