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知恵会議・交流会

Meeting

いま、発信する京都のこころ

いま、発信する京都のこころ

■対談

子どもたちに日本文化伝えたい
三笠宮 彬子さま

「結縁・随縁・尊縁」忘れないで
仲田順和座主

―京都での暮らしや活動を通して、まちの印象をどのように感じておられますか。
仲田座主◉京都を囲む山々や、河川のきれいな水には、神様や仏様が宿っていると昔から伝えられてきました。この神秘性とともに、碁盤の目のような区画で育まれた独自の文化が、京都には脈々と受け継がれていますね。私はこの地の自然や風土、まちの温かさに触れ、多くを学ぶことができたと感じています。京都は平安時代の日本文学を育んだまちでもありますね。特に、都を舞台にした紫式部の『源氏物語』は、美しい日本語の源泉として知られ、日本人の心を繊細に表現した名作です。素晴らしい環境があってこそ生まれた作品ではないでしょうか。
彬子さま◉私はいま、数年かけて『源氏物語』を原文で読んでいるところです。本当に美しい文章で、読むだけで当時の情景が頭に浮かびます。作品の中で、自分を責めることはあっても周りの人は責めない表現をされているなど、筆者の思想も魅力的です。
紫式部は、遠い歴史上の人物だと思っていましたが、私が京都で住まいしている場所の近くに彼女のお墓があると分かり、とても身近に感じられました。このまちはどこを歩いていても、必ず、何かの史跡にたどり着きますので、その歴史や物語に思いをはせられるのがいいですね。まち全体が大きな舞台のような気がいたします。

―彬子さまが京都にいらっしゃったいきさつをお聞かせいただけますか。
彬子さま◉私は東京で生まれ育ち、大学卒業後、イギリスのオックスフォード大に留学しました。専攻は日本美術で、大英博物館にボランティアとして通いながら、海外に渡った日本美術コレクションの研究をしておりました。そこに立命館大アート・リサーチセンターの先生や学生さんたちが来られ、同大学で進めておられる浮世絵のデジタル化プロジェクトのお話を伺うなど交流させていただく機会が多くありました。そのときのご縁もあり、博士課程を修了して帰国後、立命館大でポスドク(博士研究員)として採用していただき、2年半、日本美術研究やデジタル化のプロジェクトなどに取り組みました。
現在は、銀閣寺の研修道場美術研究員として、茶・花・香をはじめとする東山文化の理念を継承し、現代に伝えていくべく、さまざまな講座の企画や、道場で発行する機関誌の編集をしております。研究論文は一部の方しか読まれませんが、講座やイベントは一般向けなので、大きな反応をいただけるのがうれしいですね。

―美術品のデジタル化というお話がありましたが、醍醐寺も膨大な文化財をお持ちで、先駆的にデジタルアーカイブを始められましたね。
仲田座主◉当寺に伝わる文化財の目録調査は1910(明治43)年に始まり、以来100年にわたって『醍醐寺文書聖教目録』として作成を続けてきました。20年ほど前から目録のデジタル化に着手し、地道にデータベースの構築に取り組んでいます。デジタル化によって、どこにいても見られるだけでなく、文化財の保存状態や修復などの管理にも役立つでしょう。今では醍醐寺で開発した文化財管理システムが、文化庁や国立の博物館、東大寺などで広く利用されています。とはいえ、文化財のデジタル化に取り組むお寺はまだ少なく、技術面以外に理解の壁もあるようで、普及には時間がかかりそうです。自分が当たり前だと思う物事ほど、その価値や理由を他人に説明するのは難しいものですね。
彬子さま◉「なぜそうするのか」を伝えることは、文化や風習の伝承においても大切です。例えば、茶道の作法はややこしく見えますが、所作が一番美しく見えるように組み立てられていることが分かると、難しさは感じなくなり、自然の流れでお茶をたてられるようになります。一見すると意味がないようなことも、理由や成り立ちを知ると、きちんと取り組み、伝承していこうという気持ちになるでしょう。特に京都には、無駄に見えていても、多くの意味合いや知恵が含まれ、理解を深めることで価値に気付くような物事がたくさんあると感じます。
仲田座主◉美術品や文化財も、つくられた背景や意味を知ると、より一層、価値が分かるものです。例えば、ギリシャの女神像は衣服の裾が風になびいており、そういう作風だと思っていましたが、実際にギリシャへ行くと風がとても強く、その風土から生まれた造形なのだと合点がいきました。
伝統文化を継承するためにはデジタルデータも有用ですが、根幹にある背景や古人の思いを一緒に伝えていくことも忘れてはなりませんね。

いま、発信する京都のこころ

―では、醍醐寺に伝わる教えや背景はどのようなものでしょうか。 仲田座主◉醍醐寺は874(貞観16)年に聖宝理源大師が上醍醐の山上に准胝・如意輪の両観音像を安置したことに始まります。 当寺に信仰を寄せた醍醐天皇は、新しい命を授かるよう観音様に祈り、病の苦しみや痛みから逃れて命がすくすくと育つよう薬師如来を建立され、一歩を踏み出す強い心が持てるよう、五大明王を祭られました。この3つの祈りは、縁を結び、縁に従い、縁を大切にする「結縁・随縁・尊縁」の考えにも通じます。現代の日本人の多くは、これらの縁を忘れかけているのではないでしょうか。 醍醐天皇が崩御された後、ご冥福を祈り、これらの信仰を受け継ぐために、穏子皇后とご子息の朱雀・村上天皇が境内に五重塔を建立されました。自分の命が使える時間を十分に生かし、命を全うされた方にも祈りをささげる、いわば、見える命・見えない命の両方を尊ぶことで、自分のたたずまいが形成されるのだと、醍醐寺に残る仏像や建築などから教えられた気がいたします。

―祈りや思いが文化財を通じて、時を超え、いまに伝わったのですね。彬子さまが発起人となって創設された心游舎は、どのような活動をされているのですか。 彬子さま◉子どもたちに日本文化を伝えるため、2012(平成24)年に心游舎(京都府八幡市)を発足させました。昨今は核家族化で祖父母との同居も少なく、子どもが本物の日本文化に触れる機会が減っています。加えて、昔は神社やお寺で子どもが遊び、地域の風習や礼儀作法など多くを学びましたが、いまの子どもたちにとって社寺は非日常の遠い存在になってしまいました。そこで現在、社寺を舞台として、日本文化を子どもたちに伝えるワークショップを企画・運営しています。石清水八幡宮での御花神饌(和紙の造花)づくり、太宰府天満宮の幼稚園での和菓子づくりは毎年開催しています。最近では、福島県立美術館で日本画の岩絵の具を使った塗り絵をするなど全国的に活動しています。 子どもたちの笑顔や「また来たい」という感想が何よりの励みです。楽しかった思い出は心に残りますから、彼らが日本文化に触れた記憶を思い出すことで、文化を大切にする心の育成につながるでしょう。 デジタルの「記録」を残すことも必要ですが、100年後も変わらずにデータが見られるとは限りません。伝統文化を継承するために、人々の心に「記憶」の種をまくことも続けていきたいですね。

―文化、学術、宗教、企業経営という専門の異なる4名の方々に、それぞれの視点でご提言いただき、有意義な会議となりました。本日はありがとうございました。

◎三笠宮 彬子さま(みかさのみや・あきこさま)
1981年生まれ。故寛仁さまの長女。2004年から10年まで英国オックスフォード大マートン・コレッジに留学、博士号取得。現在、慈照寺研修道場に勤務するとともに、京都市立芸術大芸術資源研究センター特別招聘研究員や法政大国際日本学研究所客員所員を務める。また12年4月、子どもたちに日本文化を伝えるため、発起人の代表として「心游舎(13年4月より一般社団法人化)」を創設。http://shinyusha.jp/

◎仲田順和(なかだ・じゅんな)
1934年、東京都生まれ。大正大大学院で仏教原典を中心に研究を進める。57年、品川寺に入山、出家。68年、品川寺住職となり、85年より総本山醍醐寺執行長となり、2010年、総本山醍醐寺座主三宝院門跡となる。医療法人洛和会理事、学校法人日本女子大、森村学園、真言宗洛南学園の評議員を務めている。