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忘れものフォーラム

Forum

「災害と歴史と京都」

京都発で、新しい暮らしと文化を発信するキャンペーン企画「日本人の忘れもの知恵会議」。2020年オンラインフォーラム最終回は「災害と歴史と京都」と題して歴史、文学、災害心理の専門家が議論した。コーディネーターは京都新聞総合研究所所長の内田孝が務めた。

■話題提供
天命の大火 教訓伝える文学の力
フレデリック・クレインス氏(国際日本文化研究センター教授)

1788年1月、京都で天明の大火が発生しました。江戸時代には大きな災害があるたびに災害文学というべき書物が出版され、同年10月には天明の大火の経過や被害状況などを詳しく記述した「花紅葉都咄」(はなもみじみやこばなし)が刊行されました。大火をニュースとして広く伝える役割もあり、京都だけではなく、江戸や大坂でも出されました。巻頭には「御厚沢を忘れず、驕奢(おごり)をいましめ、ただ質素の行いをもっぱらとし、なおなお火の用心大切にいたすべきこと」とあり、火災への備えを広く呼び掛けることも、出版の狙いのひとつでした。

天明の大火は、鴨川東側の祇園に近い団栗辻子(どんぐりのづし)での出火が原因でした。火は南に広がり、五条通まで達したところで鴨川の西岸にも飛び火します。この後も頻繁に風向きが変わり、火は東寺や二条城、御所などを次々と飲み込み、当時の市街地のほとんどを焼き尽くします。光格天皇は、下鴨神社に避難します。しかし、炎がどんどん近づいてくるので、最終的に聖護院に移り、そこを仮御所としました。

「花紅葉都咄」には、火事場の様子や混乱ぶりが絵図と合わせて記録されています。武士は馬に乗り、町人らは家財道具を担いで逃げています。この時代の絵には畳を持って火から逃れようとする人の姿がよく描かれています。当時の畳は貴重品だったのでしょう。また、桶を手にして建物の屋根に上っている人の姿も見えますが、桶で水を撒くか、団扇で風を送って風の向きを変えるくらいしか火災を鎮圧する手段がありませんでした。この方法ではほとんど火を消すことはできなかったと思われます。

この天明の大火について、オランダ東インド会社から長崎の商館に赴任していたオランダ商館長も日記として記録を残しています。オランダ商館長は毎年、将軍に謁見するために江戸に参府しており、その道中で必ず京都に滞在していました。ファン・レーデという商館長は天明の大火の4日後に京都を通過し、洛中の惨状や困窮している人々の姿を目のあたりにします。彼は2カ月後、江戸から長崎への帰途にも京都に立ち寄りました。日記には「かくも短い期間でこれだけ多くの住居を再建し、これだけの数の小屋を作ることもまた信じられないことである」と書いています。江戸時代の災害について研究していると、その復興力に私はいつも驚かされます。


オンラインフォーラム第3回「災害と歴史と京都」

■ディスカッション
心を癒やす都人のやさしさ

復興支える共同体
フレデリック・クレインス氏(国際日本文化研究センター教授)

災厄へ千年の知恵
山本淳子氏(京都先端科学大教授)

「まさか」問う日常
矢守克也氏(京都大防災研究所教授)

山本◉平安時代、天皇の居所である内裏が全焼したのは14回にも及びます。1005年の火災で一条天皇は、中宮で藤原道長の長女でもある彰子の手を取り、徒歩で内裏から脱出します。いったん内裏周辺の建物に避難し、数日後に2人は、彰子の実家である道長邸に身を寄せました。一条天皇は在位中の999年と1001年にも火災に遭っています。1005年の火災後、すぐ内裏は再建されますが、天皇はすっかり意気消沈し、新しい内裏に入らずに別の貴族宅を居所にして生活を続けます。
994年から翌年にかけて、平安京では疫病が流行しました。公卿と呼ばれた閣僚級の貴族たちは次々と罹患し、命を落とします。内大臣で22歳の藤原伊周と、権大納言で30歳の藤原道長の2人は、生き残りました。身分は伊周が上位でしたが、年上の道長が最高位に就きます。ここから平安期に最も栄華を極めた藤原道長時代が始まるのです。
1016年、藤原道長邸の隣家から出火し、道長邸を含め、周辺地域の500軒ほどの家屋が焼失しました。道長邸は2年後に再建されます。有力武将の源頼光が家具や調度品、衣装などを道長に献上し、運び込む様子を多くの都人が見物したそうです。道長はほとんど自分の懐を痛めることなく自宅を復興し、自身の政治力や腹心らの財力を世間に誇示しました。一方で、同じ火災による被災者の中には家を復興できない人もいたはずで、この一件は社会の格差を可視化することにもなりました。
「源氏物語」に登場する光源氏の異母弟・八の宮と娘の大君(おおいきみ)、中君(なかのきみ)の3人は、京都の邸宅を火事で失いますが、京中で邸宅を建て直せませんでした。避難先である宇治の別邸にそのまま住みつき、被災者である父娘は貧困に苦しみ、姉の大君は自分の結婚をあきらめ、「妹の中君だけは幸せになってほしい」と願います。そんな大君に求婚するのが、光源氏の息子・薫です。薫も火災で自宅を失いますが、光源氏が残した大豪邸に暮らしながら、大君を迎えるために自宅を再興します。ただ、なぜ大君が結婚に同意しないのか、貧困とはどういうことかを、薫は全く理解できません。災害が貧富の格差を拡大し、両者の間には深いディスコミュニケーションが生まれることを、物語は浮き彫りにしています。そうこうしている間に、大君はこの世を去ってしまいます。

矢守◉昨今、自然災害だけではなく、感染症やテロ、戦争なども含め、複合的な災害が起きるということへの配慮や備えが重要になっています。近年では2018年9月4日、台風21号が日本列島を縦断し、近畿地方を中心に大きな被害をもたらしました。その後、台風は日本海を北へ進み、北海道にも多くの雨を降らせました。その直後の9月6日に北海道胆振東部地震が起き、厚真町を中心に発生した土砂災害で多くの人が亡くなりました。台風による大雨と地震の複合的な要因で土砂災害が引き起こされました。
防災・減災や復旧・復興を進める際、「普段」「まさか」という2つの事態をどうハンドリングするか、どう融合するかが、ポイントと私は考えています。日本社会は伝統的に「普段」「まさか」をあまり遠くに引き離さず、そばに置いてうまくマネジメントしてきました。ただ、ここ数年、各地では災害の爪痕がそのまま放置される光景が目につくようになりました。長期的な景気低迷のほか、高齢化や過疎化の進展がその理由と考えられます。
過去、何度か大火に見舞われたことや、貴重な文化財や歴史的建造物が多く残ることもあり、京都はほかの大都市に比べ、市民の防火や初期消火に対する意識が非常に高く保たれています。人口1万人当たりの火災発生件数は、東京や大阪の3分の1程度です。日本の川沿いの土手にはサクラの木がよく植えられています。日本では冬になると、地表が氷結したり、霜が降りたりする影響で、土手の地盤も緩みます。梅雨や台風シーズンを迎える前に花見で多くの人が土手に足を運ぶことで、土手の状態を確認したり、メンテナンスが必要な場所を見つけ出したりすることにつながります。普段の楽しみの中に、まさかのときの備えが巧みに組み込まれているという1つの事例です。

山本◉平安時代の物語や日記には「火危うし」や「火のこと制せよ」という言い回しが頻出します。いずれも火の用心と同じ意味合いで、当時も防火意識は高かったようです。矢守さんから「復旧されずに放置される被災現場が増えている」との指摘がありましたが、被災者の心も簡単には回復せず、心にできた傷がそのまま残り続けるということもあります。紫式部は夫を疫病で亡くし、意気消沈して引きこもる中、友人に声をかけられたのがきっかけで「源氏物語」を執筆するようになりました。被災者が社会の中で取り残されることなく、心理的な復興へと向かうには、悲しみにあった人の言葉に耳を傾けたり、思いを共有したりすることも大切なのではないでしょうか。

矢守◉2001年の同時多発テロの後、詩人ノーマ・コーネット・マレックの作品「最後だとわかっていたなら」が米国で多く読まれました。「家族や友人との突然の別れが来ることをあらかじめ知っていたら、こんなことをしたのに」という思いをつづった作品です。
私はこの詩をモチーフに、東日本大震災の被災者に今の思いを語ってもらうワークショップを高知県黒潮町で開いています。黒潮町は太平洋に面しており、近隣で大きな地震や津波が発生した場合には、被害が避けられない自治体です。近い将来、来るかもしれない「まさか」に思いを巡らせ、そこから現在に立ち返って、日常生活や平凡に過ぎていく日々の大切さを黒潮町の人たちには考えてもらっています。この活動を通じ、東日本大震災の被災者の中には自分の気持ちに整理をつけていく人もいます。

―江戸時代、オランダ人たちは日本で災害に遭遇し、自分たちの思いや感情を書き残してはいないのでしょうか。
クレインス◉江戸時代に日本に滞在したオランダ商館員の日記には、日本人の打たれ強さについての記述が多く、それによると、被災者は陽気に振る舞っていた様子がうかがわれます。長崎駐在のオランダ人が参府のために滞在した江戸では、毎日のように火災が起こりました。それに対し、京都滞在時の火災の記録はほとんどありません。江戸は新しくできた街で、さまざまな地域から多くの人々が集まっており、裏長屋の住人の多くが独身男性で、互いの素性もあまり知らないという環境でした。一方、伝統産業が盛んな京都では、徒弟制度が一般的で奉公人が師匠の家に住み込み、その生活が厳しく管理されていました。また京都では共同体が機能していたので、住人同士の助け合いや励まし合いが被災者の心の癒やしにも、復興の原動力にもつながったのではないでしょうか。天明の大火があった年にも祇園祭は開催されており、ここには京都の街の共同体としての誇りを私は感じます。

山本◉平安期の文学作品は千年もの長い時間を伝えられてきており、災害を防ぐ知恵や、被災したつらさを癒やしたり、吸収したりする力もあります。皆さんのお話を伺い、京都の街も同じような力を持っていると感じました。
矢守◉自然と人間の関わりや自分と他者の関係など、宇宙や世界を認識する際の基本的なカテゴリーを揺るがす出来事が災厄だと私は考えています。自然科学的なアプローチだけではなく、古今東西を幅広く見渡し、基本的なカテゴリーがどう変化しているのか、しっかりとらえることが災厄と向き合うためには大事だという思いを強くしています。

天明の大火後、屋根や壁の修復にいそしむ人々を紹介する「花紅葉都咄」(1788年、日文研蔵)

天明の大火後、屋根や壁の修復にいそしむ人々を紹介する「花紅葉都咄」(1788年、日文研蔵)

天明の大火を記録したオランダ東インド会社の商館長・ファン・レーデの日記の冒頭部分(オランダ・ハーグ国立文書館蔵)

天明の大火を記録したオランダ東インド会社の商館長・ファン・レーデの日記の冒頭部分(オランダ・ハーグ国立文書館蔵)

疫病流行と政界再編



◎フレデリック・クレインス
1970年ベルギー生まれ。日欧交流史。著書に災害から江戸期の日本人を探る「オランダ商館長が見た江戸の災害」(講談社現代新書)など。

◎山本淳子(やまもと・じゅんこ)
(1960年生まれ。平安文学研究。「源氏物語の時代」(朝日選書)でサントリー学芸賞。他に「紫式部ひとりがたり」(角川ソフィア文庫)など。

◎矢守克也(やもり・かつや)
1963年生まれ。災害心理学。大津波が予想される自治体での調査・実践も積極的に行っている。著書に「天地海人」(ナカニシヤ出版)など。