一覧へ

忘れものフォーラム

Forum

「コロナ禍と文化の継承」

コロナ禍で明けた2020年も半月余り。京都発で新しい暮らしのあり方を発信するキャンペーン企画「日本人の忘れもの知恵会議」は、3つのテーマでオンラインフォーラムを開いた。初回は「コロナ禍と文化の継承」。3人の文化人が茶道のあり方などを取り上げ、スペイン風邪流行時の世相と比べて語り合った。京都新聞総合研究所所長の内田孝がコーディネーターを務めた。

■話題提供
新しいハレ:心通わせる小さな茶会
熊倉功夫氏(MIHO MUSEUM館長)

1918年から1921年にかけて、日本はスペイン風邪の大流行に見舞われます。全世界で5億人が罹患し、日本での感染者は国内人口の4割に当たる2300万人に上りました。ちょうど第1次世界大戦とも重なり、人の移動に伴って感染が拡大しました。第1次世界大戦が終結した18年11月は日本での死亡者がピークとなり、この1カ月だけで4万4000人が命を落としています。
茶道史を振り返ると、18年11月は東京の大師会と並ぶ代表的な茶会「光悦会」が京都・鷹峰の光悦寺で開かれています。同じ時期に、実業家で美術品収集家としても知られる根津嘉一郎が茶会を連日開催し、茶の湯界にデビューしています。当時の人たちは意外と普段と変わりなく行動していたようです。また、翌年12月には鎌倉時代の絵巻物「佐竹本三十六歌仙絵」が数寄者らによって一歌仙ずつ36幅に分割され、希望者に譲渡されるという大事件も起こっています。

100年前も手洗いやうがい、消毒のほか、いわゆる「密」を避けるという感染防止策を実行していました。ただ、現代は交通機関が著しく発達し、都市への人口集中も進んだことが、感染拡大に拍車をかけています。生活様式の面では、20世紀の初めは大勢で集まって酒を飲んだり、外で食事をしたりすることはほとんどなく、飲めや歌えの大騒ぎをするのは祭りなどハレの日に限られていました。ハレの日には普段会わない人と顔を合わせ、飲食を共にします。これは茶会も同じ考え方です。

茶の湯を守るために、先人たちはさまざまな工夫をしてきました。コレラが流行した明治期には、裏千家13代家元の圓能斎(えんのうさい)が濃茶の各服点(かくふくだて)を考案しています。1つの茶碗に人数分のお茶をたてて回し飲みするのではなく、1人ずつ個別にお茶を振る舞います。そもそも茶の湯ではお辞儀をするときにひざの前に扇子を置くので、自然と相手との距離を取ることができます。今のコロナ時代には伝統の中にある工夫や知恵からも学ぶことができそうです。

また、日常と非日常をあらためて見直し、「新しいハレ」をつくるべきだと私は考えています。日常という意味では生活の中のお茶が大事ですし、ハレということでは本当に心を許した人が集まる小さな茶会が今後求められるでしょう。非日常の特別な場だからこそ、お互いの心がより通い合うのではないでしょうか。


オンラインフォーラム第1回「コロナ禍と文化の継承」

■ディスカッション
細やかで深い日常を送る

不況が生む文化
熊倉功夫氏(MIHO MUSEUM館長)

華やかな気分で
福田季生氏(日本画家)

人と人つなぐ食
園部晋吾氏(京都料理芽生会会長)

福田◉新型コロナウイルス感染拡大の影響で多くの展覧会が中止になり、どのようにして作品を見てもらうかが大きな課題になりました。これまではオンラインや画像では作品の本質はなかなか伝わらないと考えていました。しかし、インターネットを通じて情報発信すると、これまで美術館に足を運んだことがない人が見てくれるなど、新しい受け手の掘り起こしにもつながっていることが分かり、積極的にネット配信に取り組む作家も出てきました。それとはある意味で相反する傾向かもしれませんが、さまざまなものの距離感が見直され、身近なものをより身近に感じている人が多くなりました。東京での展覧会に来てくれたお客さんは自宅にいる時間が増えて散歩もするようになり、こんなところに花が咲いていると気づいて、時間の経過や季節の移り変わりに目が向くようになったと話していました。同じような変化が作家自身にも体感としてあって、作品づくりにも少なからず影響を与えているように感じます。

園部◉文化は人と人の触れ合いであり、人が関わらないと文化は生まれません。インターネットを介したやりとりでは、理屈は伝えられても、その場にある空気感や雰囲気までは難しいでしょう。宅配や出前、仕出しという手段はありますが、やはり店の空間に来てほしいという思いは強くあります。店では「3密」を避け、グループごとに個室を利用してもらったり、広間でもテーブルを離したり、こまめに換気をして、お客さまに安心を感じていただくように努めています。ウイルスが人と人の距離を遠ざけてしまった印象がありますが、分断や疎遠の状態が長く続けば、逆に人同士のつながりを強めようという動きが出てくるはずです。そのきっかけや橋渡し役になるのが文化や芸術だと私は考えています。

―園部さんの店は400年以上続く老舗料理店です。その間、感染症以外にも地震や水害、戦乱など、さまざまな危機があり、その都度乗り越えてこられたのですね。
園部◉大変だったという話は聞いたことがありますが、どのように乗り越えたか具体的な方法は伝わっていません。私も手探りではありますが、先祖と同じように店を次世代につないでいきたいと願っています。ただ、私が今回こうやって乗り切ったという話も、たぶん後世には伝わらないだろうという気はします。

―福田さんご自身の作風や創作に対する考え方が大きく変わった時期はありますか。
福田◉社会変化や環境に影響を受けることもありますし、意識的に作風を変えることもあります。いま、最も意識しているのは作品を見た人が暗い気持ちにならずに、できれば華やかな気持ちになってほしいということです。だから、今年の私の作品はすごく色鮮やかです。

―先ほど佐竹本三十六歌仙絵の分割事件の話を紹介いただきましたスペイン風邪の流行とは関連があるのでしょうか。
熊倉◉第1次世界大戦の終戦による経済情勢の悪化に伴って、佐竹本三十六歌仙絵の所有者が破産します。時節柄、高価な絵巻物を単独で買い取れる人がいなかったため、分割して譲渡するという手段が取られました。これはある意味、不況が生んだ新しい文化でした。36幅に切られたことによって、床の間や壁を飾る掛け物や茶道具、美術品として生かされたと私は思っています。

―店舗での会食は、テイクアウトでは楽しめない世界ですね。料理だけではなく、庭や掛け軸なども相まって食文化は成り立っていると感じます。
園部◉私はコロナ休業中に庭いじりをしていました。改善点や雑草の存在など、よく見るといろいろなことに気づき、ずっと作業に集中していました。自然と触れ合う大切さを感じるとともに、文化と自然がすごく近いところにあることにあらためて気づきました。お客さまを店に迎える際は、店としておもてなしをしている意識はありません。もちろん料理もサービスも提供しますが、あくまでも主催者や主賓の方がいて、その方のお手伝いをしているという感覚です。そのお手伝いがうまくいけば、主催者や主賓の方も満足され、集まったお客さまにもすごく喜ばれます。食には人と人をつなぐ、大きな力があると思います。

福田◉仕事で会社に通勤していた人も、毎日遅くまで残業をしたり、精神や肉体の疲労を顧みずに仕事に没頭したりする必要があるのかと、時間の使い方を見直し始めています。今までの当たり前とは違う日々の過ごし方があるのではないでしょうか。また、今回の事態は、文化や芸術が特別なものではなく、身近で距離の近いものなのだと再認識してもらえるきっかけにもなるのではないかと期待しています。

熊倉◉2人の話を聞いて感じるのは、コロナの経験を決して無にしてはいけないということです。コロナ感染拡大前の海外から観光客が押し寄せ、その好景気に酔いしれていたバブルのような状況を復活させるのではなく、新しいあり方を考えなければなりません。自然を見つめるとか、人との密な関係を作り出すとか、制作や料理に対する取り組み方をもっと細やかで深いものにしていくとか、この体験から得たものを生かさないまま捨てるのはもったいないのではないでしょうか。ここから生まれた新しい価値観や新しい気づきを日常生活の中に取り込み、どう定着させるかが今後の課題となるでしょう。

日本料理は、この国の長い歴史や文化を踏まえている(提供・山ばな平八茶屋)

日本料理は、この国の長い歴史や文化を踏まえている(提供・山ばな平八茶屋)

福田季生「百花図」(絹本彩色)2020年

福田季生「百花図」(絹本彩色)2020年



◎熊倉功夫(くまくら・いさお)
1943年生まれ。京都大人文科学研究所、静岡文化芸術大学長などを経て2016年から現職。専門は茶道など文化史。著書に「後水尾天皇」(中公文庫)など。

◎福田季生(ふくだ・きはる)
1985年生まれ。京都市立芸術大で日本画を学ぶ。2018年に第5回続「京都 日本画新展」優秀賞など受賞多数。2020年10月の梅軒画廊(中京区)などで個展。

◎園部晋吾(そのべ・しんご)
1970年生まれ。天正年間創業の料亭山ばな平八茶屋(左京区山端川岸町)長男。大阪・北浜の料亭を経て実家へ。京都料理芽生会会長などで料理界に尽力。