■基調講演
「絵に見る忘れもの 日本の美意識」
柳原正樹氏 (京都国立近代美術館館長)
見えない空気の流れ、風をいかに描くかが日本画の神髄
現在の日本での絵画は、大きく日本画と西洋画に分類して語られます。「日本画」という呼び方は、政府の要請により来日したアメリカの哲学者で美術評論家でもあるアーネスト・フェノロサが、1882(明治15)年に東京大学での「美術真説」という講演で、土佐派、狩野派、円山派、南画、浮世絵などの総称として定義したとされています。ちなみに「芸術」「美術」という言葉も明治時代に、哲学者であり貴族院議員でもあった西周らにより創出された新語です。
西洋画の技法は、主に立体を表現する遠近法と、光と影を強調する明暗法を用いて描かれます。一方で一部の例外を除いて日本画の技法は、花鳥風月を主なテーマとし、余白の美を大事に、感性や想像力を存分に生かし、見えない空気の流れ、風をいかに描くかというところに神髄があります。
明治維新とともに多くの西洋画が日本に伝わり、1890(明治23)年、東京美術学校初代校長に就任した岡倉天心の門下生であった日本画家の菱田春草や横山大観などが、西洋画の技法も取り入れた作品を発表しています。ところが、彼らの線を引かない絵画は当時、日本画ではない「朦朧体」だとの批判が多く出ました。線も日本画では大きな意味を持っていることを示したエピソードです。
日本画の素材は、和紙、絹、麻、板をベースに、鉱物や貝殻を粉末にした岩絵の具を用い、牛皮や骨に含まれるコラーゲンを原料とした「膠」を接着剤にして彩色するのが基本です。ところが近年、岩絵の具と膠を製造する職人が減り、後継者も育っていないため、価格も高騰。帆布などのキャンバス地に油絵の具で仕上げる西洋画と比べ、若い作家たちの経済負担は非常に大きいものがあります。
日本画は、千数百年前の仏教伝来とともに、中国大陸や朝鮮半島を経由して伝えられた技法と素材で描かれ、現在まで受け継がれている世界でも類を見ない長い伝統を誇る絵画様式です。欧米では日本の江戸時代から現在まで日本画の人気は高いのですが、日本では、私たち祖先たちが育んできた美術品の素晴らしさに気付かず忘れ去ろうとしています。
生活様式の西洋化と相まって、マンションをはじめとする日本の住居から床の間が消えることと連動し、家庭での日本画鑑賞源であった掛け軸も一般家庭ではほとんど掛けることはなくなりました。これも日本画鑑賞の機会が少なくなった要因の一つでしょう。掛け軸は額縁と異なり、巻けば収納に場所を取らないし、いざというときに簡単に持ち出せる利便性があります。掛け軸の天地の天の部分に「風帯」と呼ばれる、2本の風でなびいて揺れる紙帯が下がっています。これは、鳥や虫などを本体の絵や書に寄せ付けない作用があるということをご存じの方も少なくなっています。
最近では日本画を専門に作品を描く作家志望者も減っています。わが国特有の奥深い芸術を途絶えさせてしまっては、日本文化の大きな損失になります。今年は明治維新150年とともに横山大観生誕150年でもあります。この機会にあらためて日本画の手法や精神性を思い出し、あるいは新たに学び直す必要があるのではないかと考えています。
■パネルディスカッション
「美術・工芸を暮らしに取り戻す」
明治以前の日本。技と質と哲学が見事に融合していた
柳原正樹氏 (京都国立近代美術館館長)
美しい仕事、正しい仕事は美しい暮らしから生まれる
鷺 珠江氏 (河井寬次郎記念館学芸員)
優れた美術・工芸品は、自分を振り返る時間を与えてくれる
利田淳司氏 (銘竹問屋 竹平商店4代目)
工業デザインは時間の経過とともに良くなる工芸に学ぶべき
岡田栄造氏 (京都工芸繊維大教授)
―少子高齢化の時代、工芸の部門も縮小、再生産傾向にあるのではないかと危惧しています。そんな状況を受け、柳原館長の講演へのコメントと、自己紹介を兼ねて美術・工芸に対するそれぞれの取り組み、お考えをご紹介ください。
鷺◉「花鳥風月」の中でも特に目に見えない「風」をも表すことのできる日本人の感性は素晴らしいというお話に、日本人の持つ「間」という感覚との共通性を思いました。日本人が忘れてしまっているものを、できるだけ次世代に伝えていけるよう、私なりの努力を続けたいとの意を強く持ちました。
河井寛次郎記念館は東山区五条坂に位置。私は河井の孫で、記念館の学芸員を担当しています。1890(明治23)年、島根県安来町(現安来市)の大工の家に生まれた河井は、東京高等工業学校窯業科を卒業後、京都市陶磁器試験場に入所、釉薬や中国陶磁の研究を経て、1920(大正9)年、五条坂に「鐘渓窯」と名付けた登り窯を持ち独立、作陶を開始。当時の東山山麓には20を超える窯がありました。河井の陶芸作品は、ここ京都国立近代美術館にも400点余りが収蔵されていて、陶芸作家としてはトップクラスで多い作品数になるはずです。
河井は「暮らしが仕事、仕事が暮らし」をモットーにしており、柳宗悦などとともに、民衆の暮らしの中から生まれた品に美を見いだす民藝運動を大正末期に興しました。1937(昭和12)年、現在の記念館の地に自ら設計した住居を構え、家具なども手掛けます。竹の本来の姿を生かした竹家具のデザインに熱中した時期もありました。木彫、キセルなどの金属工芸、書などの陶芸以外の創作活動も幅広く行い、66年に76歳で逝去しました。
利田◉柳原館長のお話にも通じるのですが、西洋文化を受け入れ、それを再構築して自分のものとしてきた明治以降の日本は、それと引き換えに日本の独自性を捨てざるを得なかったと考えています。しかし現代は、消費や所有欲全盛の時代から内面を充実する時代に入ってきていると思いますので、今こそ、日本のブランド価値を見つめ直し、日本の文化芸術の優位性に気付く時だと思います。
当店では、かやぶき家屋の天井に使われていた竹が、いろりで200年ほどいぶされて褐色に変化した煤竹や、プレーンな白竹、模様のある紋竹などの銘竹を主に扱っています。用途としては、天井や格子などの内装建築材をはじめ、簾や犬矢来、あるいは竹籠や照明器具などがあり、加工が容易な特性を生かせば、職人の高度な技術力によって、さまざまに変化させることが可能です。竹そのものは素朴ながらも、それぞれが個性に満ちた自然素材でもあります。国内外を問わず引き合いがあるのも、竹素材の持つ表現力の高さであり、竹は将来においても可能性を持つものと信じています。
〝日本の伝統色〟には竹にまつわる色が16、17色あります。自然の微妙な変化に気付くこと、これが日本の感性なのだろうと思います。竹のみにとどまらず、四季のある国であるからこそ得た、自然を感じ取る繊細な感性。その繊細さが生み出す洗練されたカタチ、つまりデザイン力。そして、そのカタチを現実にするために磨かれる技。これが、「日本のブランド価値」ではないでしょうか。
岡田◉私は大学で、衣食住に関わる工業デザインを専門に学生たちに向けて指導しています。日本での工業デザインは、先ほど鷺さんのお話に出た柳宗悦の長男である柳宗理が、1950年代に活動を開始したのが草分けで、まだ100年もたっていない分野です。
私の博士論文は日本における椅子の歴史研究がテーマでした。日本に椅子が本格的に導入されたのは、明治政府の初代文部大臣の森有礼が、寺子屋式で子どもたちが正座して授業を受けるのを廃止、学校に机と椅子の導入を決定したのが最初です。椅子の生活だと行動が活発になり健康を維持でき、身長も伸び、欧米諸国と対等に渡り合える体力が付くだろうとの思惑が主な理由でした。それとは逆に、日本人の静かな身体性が失われるという理由で椅子の導入に反対した人もいました。
私自身の活動としては、リボン製造会社のために新規製品の開発を行った「リボンプロジェクト」があります。巻きリボンの断面の美しさを生かし、価格の安い中国製品に負けない付加価値の高いボウルやスプーンなどを若手デザイナーたちと製作、国内だけでなく欧米各地からの引き合いも多くあります。大学ではKYOTO Design Labでさまざまなプロジェクトを手掛けています。外国人観光客などの来訪により様変わりした京都の錦市場の再生に向けた取り組みはその一つです。食文化体験施設の建物の基本設計や、二十四節気の食に関わるカレンダーのデザインなど、忘れかけている日本文化の復活デザインにも精力的に取り組んでいます。
柳原◉インダストリアル(工業)デザインと聞けば、キッコーマンしょうゆの卓上瓶をデザインした榮久庵憲司氏がすぐに思い付きます。彼は知恩院ゆかりの僧侶でもありましたから、「お寺には全てのインダストリアルデザインが集まっている。私は京都で修業しているとき、寺からデザインを教わった」という言葉を残しています。皆さんのお話を聞いていて、京都は生活と美術、デザイン、工芸の全てを包み込んだような都市として日本に位置していたのではないかと、あらためて思いました。
―本館の常設展示の場所に「工芸は芸術と産業の融合である」との趣旨の解説パネルがありますが、工芸と芸術との関係についてお話しください。
柳原◉1907(明治40)年に東京で第1回文部省美術展覧会が開催されました。このとき展示されたのは、日本画、西洋画、彫刻の3部門で、工芸は対象外でした。当時は絵画と彫刻が芸術で、工芸作家は、これらより下に見られ芸術家とは呼ばれなかったわけです。
―とすると河井寬次郎ご自身は、自分は芸術家だとは名乗っておられなかったのでしょうか。
鷺◉河井は民藝運動を通し、美というものは決して特別なものではなく、誰もが暮らしの中で美に関与できるとしました。陶芸家という言葉は使わず「陶工」とし、娘の学校の書類にも、職業欄には「陶磁器製造業者」と書いていたようです。
利田◉現在は量ではなく質の時代に移り、高品質なオーダーメードに対応できるものをつくれる職人の力が大事になってきています。竹卸問屋の立場からすると、品質、デザインの優れた工芸品を求める消費者の要望に応えることが大切な仕事であり、求められるデザインをカタチにする技術への期待が、彼らの技をさらに高め、そして次世代にも伝えていけるものと考えています。
岡田◉産業革命以降、機械による大量生産時代に入った時期から美と産業が分離しました。それを再度統合しようという動きが世界的に出たとき、理想的なモデルとされたのが実は、民藝運動が活発になっていた日本でした。今後の生活と美意識(美術)を考えたとき、ファインアートたる美術から応用美術である工芸を排除するのはいかがなものかなという気持ちが私にはあります。
―大手家電メーカーのパナソニックが今年、デザイン部門を集約した事務所を京都に開設したのは、京都在住の工芸作家や職人たちの仕事や、京都の蓄積してきた美に対する潜在力に着目して製品デザインに反映することが大きな目的だと聞いています。
柳原◉天皇家が住まい、神社仏閣が多い京都では、有力な依頼者がいろんなものを職人たちに発注することで、デザイン力、工芸力、あるいは美術力が研ぎ澄まされてきました。こうした潜在的な美的感覚が京都に脈々と流れてきたからこそ、インダストリアルデザインを担当する人たちにとって、どこかでヒントを得られる機会が多い場所ではないでしょうか。
芸術や美術、工芸という言葉ができる以前である江戸時代までは、優れたものをつくる人は、例えば「美術家」ではなく「絵師」と呼ばれていました。私の個人的な考えですが、師といわれていた時代の方が、芸術家としての気取りがなく、技と質と哲学が見事に融合していたのではないかと感じています。
鷺◉真の芸術家とは、高度な技術力と豊かな感性の両方が備わっていてこそのものであり、後になって多くの人が評価するのだと思います。河井自身は生前、本当の仕事というのは名前などを超えたところに存在するものだと考え、無名性を非常に重要視していました。薪や粘土を調達してくれる人、登り窯をたいてくれる人など、無名の多くの方たちの支えがなければ陶工は成り立ちません。そのため河井は「ひとりの仕事でありながら、ひとりの仕事でない仕事」という言葉を残しています。また、「美しい仕事、正しい仕事は美しい暮らしから生まれる」との考えのもと、暮らしそのものをとても大切にしました。手づくりの民芸品だけにこだわることなく、工業製品でも「機械は新しい肉体」と位置付け、感性の優れたものは生活に取り入れていました。
利田◉竹は身近にある素材として、古からさまざまな日常的な実用品として使われてきました。他方、作者独自の高度な技術に加えて、何らかの哲学を表現した美術工芸と呼ばれる作品もあります。そのどちらでもなく、無名でも美術的な価値を消費者が認め、実用品として大事に使われる製品も多く存在します。それが工芸品なのだろうと思います。優れた工芸品は、絵画などと同じように、見ること、使うことによって作者の思いが伝わるもの。その思いを味わうことに没頭する時間は、自分を振り返る贅沢な時間となるのではないでしょうか。
岡田◉インダストリアルデザインの概念ができてから、工業製品にはいいデザインのものがたくさん生まれてきました。しかし、伝統的な工芸品のように時間の経過に比例して、さらに素晴らしいデザインに変化していくものが工業製品にはありません。工芸に学ぶことで、時間を経てなお良くなるものを新しいテクノロジーで可能にする、そうなると新しく優れたデザインの実用品が数多く生み出される次の時代が来るのではないかと私は考えています。
―本日は、貴重かつ意義深いお話を皆さまありがとうございました。
◎柳原正樹(やなぎはら・まさき)
1952年富山県生まれ。大阪芸術大卒。富山県立近代美術館学芸員、水墨美術館長などを経て、2013年、京都国立近代美術館館長に就任。昨年4月からは、国立美術館理事長も務める。専門は日本画と彫刻。主な著書に『二十世紀美術を見る』など。
◎鷺 珠江(さぎ・たまえ)
1957年京都市生まれ。80年、同志社大文学部文化史学科卒。同年より河井寬次郎記念館学芸員として勤務。祖父河井寬次郎に関わる展覧会の企画・監修や出版、講演会、資料保存などに携わる。主な著書に『河井寬次郎の宇宙』『やきものの楽しみ~近現代の陶芸Ⅰ~』など。
◎利田淳司(かがた・じゅんじ)
1967年京都市生まれ。関西学院大法学部卒。1915年創業の銘竹問屋・竹平商店4代目、代表取締役。NHK「BEGIN JAPANOLOGY」「美の壺」などメディアへの出演や「第8回世界竹会議」の開催組織委員を務めるなど、日本の銘竹の美を海外・国内に向け発信する活動を行っている。
◎岡田栄造(おかだ・えいぞう)
1970年福岡県生まれ。千葉大大学院自然科学研究科博士後期課程修了。現在、京都工芸繊維大教授および KYOTO Design Lab ラボラトリー長を務める。グッドデザイン賞(日本)、Red Doto賞(ドイツ)などの賞を受賞。著書に『海外でデザインを仕事にする』など。