京都から新しい暮らしのあり方を発信するキャンペーン企画「日本人の忘れもの知恵会議」。2022年春から、やなぎみわさんと大学生らの対話篇を始める。これに先立ち、やなぎさんと山極寿一さんが若い世代に伝えたいことをオンラインで語り合った。コーディネーターは京都新聞総合研究所特別編集委員の内田孝が務めた。
対談シリーズ
Conversation series
年末特別対談 若い世代に伝えたいこと<上>
(2021年12月) ◉ 実際の掲載紙面はこちら
■対談
若い世代に伝えたいこと
身体感覚としてのニュース
山極寿一氏(総合地球環境研究所所長)
野外劇の一体感に触れよう
やなぎみわ氏(美術作家/舞台演出家)
山極◉アートと身体は、相互に影響しており、地続きではないでしょうか。現在の科学では、インターネットなどが作る仮想空間で、もう一つの自分が生じ、自在に動き回っています。今や気軽に受信者にも発信者にもなれる時代です。自分自身が仮想空間に安住し、現実世界から遊離してしまう恐れも出てきました。
やなぎ◉ここ20年でデジタル技術が発達し、誰もがバーチャルな世界に自由に参加できるようになりました。面倒な自分の身体を捨てて、老いや病気から自由になったり、子どもが子どもという制約に縛られずに大人を演じたりできることは暴力性を伴うので、非常に怖いと感じます。古代ギリシャでは、年に一度開かれる大祭に合わせてギリシャ悲劇が上演され、多くの人が熱狂しました。日本でも、各地に無礼講のお祭りがありますが、現代社会ではスマホを持ち、自分の手元で人間が持つ暴力性を細切れにして、毎日少しずつ発散しているような気がします。
山極◉今、ヘイトスピーチやフェイクニュースを流して、人々が混乱する様子を安全な場所から眺めて喜ぶという犯罪に近いようなことが起こりつつあります。他人を戦わせたり、何かを代わりにやらせたりして、自分が直接関与をすることにあまり喜びを感じなくなっているのではないでしょうか。
やなぎ◉リアルな世界から離れ、神の視点から見ているようですね。最近、学生のレポートを読んでも、現実感のない世界認識が多くなったなと感じます。
山極◉毎日、世界中のニュースが報道され、その事実は頭に入ってきますが、身体感覚として受け止められていない気がします。生物としての人間の限界で、特に視覚や聴覚を通じて入ってくるものは、簡単に身体化できません。逆に言うと、他者と共有しやすい感覚ですので、虚偽や虚実がないまぜになったフェイクニュースが拡散するのでしょう。
一方、嗅覚、味覚、触覚は自分が近くにいないと知覚できず、なおかつ人とは共有が難しい感覚です。一緒に食事をしていても相手が同じ感覚で味わっているとは限りませんし、接触の場合も、接触する側とされる側では違う感覚になります。デジタル技術によって拡大が続く視覚や聴覚に対し、共有には意思的な働きかけが必要な嗅覚、味覚、触覚は取り残されたままです。
やなぎ◉芸術の世界も二分されている印象を持っています。一定期間、ある土地に滞在し、ゆっくりと時間をかけて創作活動を行うアーティスト・イン・レジデンスのようなスタイルを志向する動きがあります。他方では、3次元プリンターという革命的なツールが生まれ、有名作家が手掛けた作品データがインターネット経由でやりとりされるようになりました。高さ5メートルほどの巨大な彫刻作品も、あっという間に3次元プリンターで出力でき、中国や中東などにある工房やファクトリーで制作され、現地で堂々と公共アートとして設置されています。大手ギャラリーが主導しないと実現不可能な制作スタイルですね。資本主義による工業化や効率化が、芸術領域にも浸透しつつあります。
山極◉やなぎさんは、写真作品など現代美術分野からキャリアをスタートさせ、演劇作品を通して同時代の人たちに問いを投げ掛けるという活動を続けています。演劇に軸足を置くのはご自身の中で大きな変化があったからでしょうか。
やなぎ◉2009年に美術展「ベネチア・ビエンナーレ」に出品し、各国を代表する作家の作品に触れ、現代美術に限界を感じたのも一因です。
現代美術は近代以前の西洋美術をルーツにしています。日本を含めたアジアには工芸や芸能はありましたが、美術という概念はありませんでした。明治政府は近代国家を目指して外国人作家を雇い、西洋美術を国内に導入しますが、そもそも「美術とは何か」が理解されていませんでした。当時、建設された美術館には人魚のはく製が展示されていたとも伝えわられます。
演劇を始めた当初は、劇場で上演していましたが、次第に野外へと場所を移しました。野外劇は雨風や気圧など、天候や気象に大きく影響されますし、当日に台風接近などの荒天で中止になることもあります。どれだけ時間や労力を費やして準備をしても「最後は、人間の力でどうにもならない部分があるのが芸能」で、日本文化の歴史や文脈の中では美術も同様だ、と認識しています。
山極◉劇場は人為的に作られた空間で、同じ演目を繰り返し安定して上演することが担保されています。しかし、野外では気候をはじめ、観客の意思や、たまたま通りがかった人の視線が交錯して、毎日同じものにはなりません。現代では、その一回性がもっと重要視されてもいいのではないでしょうか。同じことは繰り返せない、同じものは生み出せないという一回性は生物の本質ですが、ICT(情報通信技術)やAI(人工知能)が発達したことで、世の中は均質化の方向に突き進んでいます。
やなぎ◉劇場は外部の環境と遮断された完璧な箱で、照明や舞台装置などもすべて制御されています。巨大な機械の中でパフォーマンスをしている感じで、だんだん息苦しくなり、野外へ飛び出しました。2019年の神戸公演では岸壁に移動式の舞台を置き、海上に浮かべた台船に客席を設けました。客席は波によって上下し、観客にも負担をかけますが、私は比喩的な意味でも、「揺らぎのある場所で上演したい」との思いを常に持っています。野外劇は最も原始的な表現方法ですが、その場に一期一会で集まった人たちや周囲の環境との一体感を、若い人たちにも体験してもらいたいと考えています。
山極◉私はアフリカで毎日のようにゴリラに会っていましたが、動物たちから受ける印象は、一日一日まったく違います。人間にとって最も大切なのは「出会いと気づき」だと思います。この2つはセットになっており、出会いがなければ気づきもありません。出会うのは人間でも、動物でもよく、出会いを得られる環境に身を置かなければなりません。
それぞれがある場所に集い、出会いというチャンスをシェアするのですが、1回きりだからこそ気づきがあるわけで、何度も繰り返せるのであれば、チャンスの大切さも分からず、毎回同じ相手であれば会う必然性も生じません。今、私たちは膨大な情報を頼りに理解を深めようとするため、情報に自分が捕らわれ、身動きが取れない状況に陥っています。自ら動いて何かに出会い、気づきを得る時間や機会をみすみす取り逃がしているような気がしてなりません。
やなぎ◉山極さんの「ゴリラになったつもりで物事を見よう」という呼び掛けは、非常に興味深い提案です。
山極◉日本の霊長類学の創始者である今西錦司さんから「おまえはゴリラになってこい」と言われ、ジャングルの中でゴリラと一緒に行動し、研究を続けてきました。やがてゴリラの視点で人間を眺めるようになり、よりはっきりと人間の特徴や人類の進化過程を認識できるようになりました。白目があるのは、霊長類では人間だけです。目そのものを自分の意思で動かすことは難しいので、目には心情がストレートに表れます。相手の気持ちを知りたいと思っても、実のところ本当の気持ちなんて分かるはずはありません。しかし、気持ちが目に表現されていると感じる心を共有することはできます。私たちは目線を交わし、見つめ合うことで、言葉以上のコミュニケーションをしていますので、どれだけICTやAIが普及しても会うということは大事にしなければなりません。
やなぎ◉私の息子は中学2年生です。京都大の留学生に英会話を習っていましたが、コロナ禍でレッスンはオンラインになりました。その後、先生がカメルーン在住の方に代わりました。彼はストリートミュージシャンで、息子は歌を教えてもらって一緒に歌い、隣国との国境地域から送ってくるライブ映像を見たりしています。私の子どものころには考えられなかった関係性です。息子が高校生か大学生になれば、カメルーンに行かせようと思います。
山極◉10代の環境活動家グレタ・トゥーンベリさんは、地球温暖化によって人類は存亡の危機に直面しており、私たちの未来を植民地化していると大人たちを非難しています。彼らが納得のできる答えを出せるのは、政治家や経営者でも科学者でもなく、身体や心に届く物語を紡ぎ出すことができる芸術家や文学者ではないでしょうか。
やなぎ◉12月25日、舞台「アフロディーテ~阿婆蘭(アポーラン)~」を台湾で上演するために、私はすでに現地入りしています。台湾にあるランユーという島を舞台にしたオペラ作品で、絶滅の危機に瀕する原生種のランを守ろうとする島民や、クローン技術を使って巨大なランを育成する人たちの物語です。
現実のランユー島には台湾本島の原発から出る核廃棄物の貯蔵施設があり、住民の反対運動によって運び込みが中止されたという騒動がありました。私がランユー島をテーマにするとアナウンスした時、台湾では作品化を問題視する向きもありましたが、工業化や大量消費によるしわ寄せが離島や僻地に及ぶのは世界中どこでも同じ構図です。作品にはこういった問題意識も織り込んでいます。
山極◉地球上の自然や文化について、多様性を維持し、次世代に継承していくことが大きな課題になっています。自然や文化資源が失われ、標本や歴史資料としてしか残っていないという事態は避けなければなりません。ぜひ、それぞれの土地の「在来知」を生かした演劇作品を作り続けてほしいと期待しています。
山極寿一さんの対談本の最新刊は「ゴリラの森、言葉の海」(新潮文庫)。小川洋子さんが問いかける山極思想入門だ。鷲田清一さんとは、ともに大学学長時代にリラックスして対談。渋沢栄一まで登場する「都市と野生の思考」(インターナショナル新書)だ。尾本恵市さんとの「日本の人類学」(ちくま新書)では、日本学術会議など研究のあり方も議論し、今西錦司から西田幾多郎へと自らの系譜をさかのぼる「未来のルーシー」(青土社)は、中沢新一さんが山極さんの興味深い回答を引き出す。(内田孝)
やなぎみわさんは、台湾で2014年に製造された長さ8メートル、最大積載量13トンの舞台トレーラーを所有。中上健次(1946~92年)の小説「日輪の翼」が原作の舞台などを制作し、コロナ禍以前は各地での野外公演を重ねた。京都では2015年、「京都国際現代芸術祭」にトレーラーが登場している。
「不惑を超えて始めた」という演劇。やなぎさんが初めて見た舞台は、唐十郎の状況劇場、紅テントの「少女仮面」だったと言う。
◎山極寿一(やまぎわ・じゅいち)
1952年生まれ。霊長類学、人類学。屋久島やアフリカで調査。文明の起源、進化を研究。著書に「京大というジャングルでゴリラ学者が考えたこと」(朝日新書)ほか。
◎やなぎみわ
1967年生まれ。京都市立芸術大で染織を専攻。2009年ベネチア・ビエンナーレ日本館代表。写真、映像作品制作などを経て、11年から本格的に演劇へ。脚本、演出、美術を手がける。