賛同企業代表者 文化人 対談シリーズ
経済面コラム 未来を思い描く

思い描く、未来へ

drawing the future of tomorrow

- 2020元日 文化人メッセージ -

中村桂子

「生きとし生けるものがよむ歌」

中村桂子
生命誌研究者

「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。(中略)花に鳴くうぐいす、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」
紀貫之による『古今和歌集』仮名序の冒頭です。
私の専門である「生命誌」は、地球を38億年前の海に誕生した生命体を祖先とする、多様な生きものが棲む独特の豊かさを持つ星とみます。そして、人間を生きものの一つであり自然の一部として捉え、生きるというそのことに幸せを求める生き方を探ろうとしています。
生きものである人間の持つ最も重要な特徴は、言葉です。私たちの祖先は決して強くはなかったのに、言葉を通して話し合い、共感し、仲間として暮らすことによって生き続けることができたとされます。その特徴が文化を生み出したのです。人間らしく生きるとは、「心を種としたよろづの言葉」を大切にして暮らすことです。しかも私たち日本人は、ウグイスやカエルの話にも耳を傾けて文化を創ってきました。
人間は、言葉によって文化を生み出すと同時に、環境に関する情報を共有し制御する能力を持ち、文明を築きます。こうして生まれた現代文明は、利便性と成長に専念し、小さな生きものの声を聞きません。こうして他の生きものたちが暮らしにくい環境になりました。人間は生きものであり自然の一部なのですから、この文明は私たち自身をも生きにくくしています。
近年、現代文明を支えている科学は、地球上のすべての生きもののつながりを次々と明らかにしつつあります。その中で、73億人といわれる人々はすべてアフリカを故郷とする仲間であることが示されました。これだけの知識を得たのですから、今や地球を故郷とする仲間として、すべての人、他の生きものと共に生きる道を探るのが当然でしょう。基本は寛容です。
それなのになぜか昨今、人を憎み、貶める言葉を用い、共感という本来の言葉の役割を忘れているとしか思えない行為が広まっています。争いをしている暇はありません。近年の調査で身近なチョウが激減し、40%もの種が絶滅危惧種になっているという報道もあります。
小さな生きものが歌をよめなくなったら、人の心も消えます。「生きとし生けるものがよむ歌」を大切にする文化の力で、生きものとしての人間が心豊かに暮らせる文明を創ること。それが今求められていることです。平安時代の平和を思い起こし、寛容の文明を創りたいと思います。

◉なかむら・けいこ
1936年東京都生まれ。理学博士。東京大理学部化学科卒、同大学院生物化学修了。三菱化成生命科学研究所人間・自然研究部長、早稲田大人間科学部教授、大阪大連携大学院教授などを歴任し、JT生命誌研究館館長を務める。『言葉の力人間の力』『自己創出する生命』『科学者が人間であること』など著書多数。訳書に『やわらかな遺伝子』など。