思い描く、未来へ
drawing the future of tomorrow
- 2020元日 文化人メッセージ -
格差を容認し始めた日本人
橘木俊詔
経済学者
戦前の日本は身分社会、あるいは格差社会であったが、戦後の民主化によって平等社会が30〜40年続いた。しかも経済成長率は高く、効率性と平等性の両方を満たした世界でも稀有で誇れる時代であった。しかし、ここ20〜30年ほどは格差社会が再び出現し、悪いことに経済も不況の時代となった。そこで通常では経済学で定説となっている思想、すなわち経済成長率を高めるためには平等性を犠牲にせざるをえないという主張が強くなってきた。
具体的にどのような主張があるだろうか。第一に、経済を強くするには有能で頑張る人の貢献に期待せねばならないので、これらの人の高い所得を容認する。すなわち競争の礼賛と結果の格差の容認である。第二に、有能でなく頑張らない人の低い所得は本人の責任によるので、そういう人を助ける必要はない。弱者の自己責任論である。この二つの思想の台頭により、格差は拡大し、所得再分配政策の否定につながる。過去の日本では最高所得者への所得税率が80%であったが、今は40%台に低下していることがその否定の証拠である。
私が残念に思うのは、第三に、豊かな家庭に育った子どもは良い教育を受けてよく、貧亡な家庭の子どもに税金を投入して良い教育を受ける政策への賛成論が低下したことである。教育の機会均等論への支持が失われるようになったのである。
その証拠は、国家の教育費支出の対GDP比率が先進国の中で、日本は最低水準にいることで分かる。子どもの教育は親の義務であるとの通念を日本は覆せないのである。貧しい家庭の子どもであっても良い教育を受けられる社会であれば、そういう人の資質が高まることにより、格差社会はかなり是正される。今までは教育の機会均等の必要性はかなり高く支持されていたが、もうそういう時代ではなくなっている。
戦後の数十年間は、家庭の教育費支出が低い時代だった。例えば国立大学の授業料(私の時代では年額1万2千円であった)はとても低く抑えられていたので、貧困層の家庭の子どもでも本人が頑張れば良い教育を受けられたのである。今の国立大学の授業料は50万円強で、他の物価よりもはるかに高い上昇率である。
なぜ日本人が好ましい思想であった教育の機会均等論を否定するようになったのか、筆者はまだ解答を見つけられていない。所得格差を容認し始めた日本人の精神と関連しているかもしれないが、今後の研究課題にしたい。
◉たちばなき・としあき
1943年兵庫県生まれ、小樽商科大、大阪大大学院を経てジョンズ・オプキンス大大学院博士課程修了3(Ph.D)。その後、仏、米、英、独の大学、研究所で研究・教育を行った。京都大教授、同志社大客員教授を経て、現在、京都女子大客員教授。京都大名誉教授。専攻は労働経済学、公共経済学。編著を含めて日本語、英語の本は100冊以上。