賛同企業代表者 文化人 対談シリーズ
経済面コラム 未来を思い描く

思い描く、未来へ

drawing the future of tomorrow

- 2020元日 文化人メッセージ -

茂山忠三郎

「孝行」

茂山忠三郎
能楽師大蔵流狂言方

茂山家は江戸時代初期から大蔵流狂言方として代々京都で御用を務めてきたが、1821(明治46)年、八世茂山久蔵の代で一度中断している。しかし、久蔵の弟子、佐々木忠三郎(千五郎正乕)と弟弟子の小林卯之助(初代忠三郎)が大蔵家元の弟子となり、1825年茂山家の再興が許されたのである。今の茂山千五郎家と茂山忠三郎家である。
そんな歴史を背景に、令和の新時代を迎えた今、自身の忘れものを考えてみた。平成の半分を学生として過ごし、残りの半分は狂言の稽古に明け暮れた。その中で私の一番の出来事は師匠でもある父との別れである。高齢の父と私との年齢差は一般家庭の祖父と孫世代くらい離れていたので、師弟としての向き合い方は間違っていなかったはずである。互いに「これだけは教えておきたい」、「これだけは教わっておきたい」という芸事上での意思疎通はできていたように思うからだ。しかしながら、師と弟子である前に父と子として考えた場合、子としての親孝行には今でも疑問と後悔の念が残っている。これといった親孝行をした記憶がないのである。今では私にも妻がおり、子どもも2人授かっているが、それは父が他界した後の話である。きっと父は孫の顔を見たかっただろうし、妻に酌もしてほしかったはずだ。父への申し訳なさが今もずっと心の中に残っている。
唯一の救いは父の晩年、旅先での旅館で背中を流したことくらいか。舞台上では大きな背中だと思って、後を必死についていたが、病気も相まって「ずいぶん小さくなったな」と思ったものだ。それでも父の喜んでくれたあの笑顔を忘れることはないだろう。
私の母は今も元気でいてくれている。父にできなかった親孝行を、私の「平成の忘れもの」を、新時代を共に迎えてくれた母にしてあげたいと思う。私はまだ若輩者ゆえ、人さまにどうこう言える立場ではないと自覚しているが、ただ、私の「平成の忘れもの」が、一人でも誰かの「たまには親孝行してみるか」との思いにつながってくれれば本望である。
「重厚で骨格の大きい芸。土の匂いを残しつつも泥臭くならない芸。謡・舞を鍛えて写実にかたよらない様式の美をも大事にする芸」茂山忠三郎家で大事にしてきた芸の教え。印象が後に残り、含み笑いを残すような〝含みのある狂言〟│それを亡き父に倣い、五世当主として継承していきたい。

◉しげやま・ちゅうざぶろう
1982年京都市生まれ。父は四世忠三郎(倖一)。本名茂山良暢。4歳の時「以呂波」のシテで初舞台を踏み、その後「釣狐」「三番三」「花子」「狸腹鼓」など秘曲、重曲を披く。2017年、五世茂山忠三郎を襲名。海外公演やオーケストラなど他ジャンルとのコラボレーションも盛んに行い、近年ワークショップや狂言教室での指導や講演も行なっている。京都橘大客員教授。