思い描く、未来へ
drawing the future of tomorrow
- 2020元日 文化人メッセージ -
「自然」と交歓する
神居文彰
平等院 住職
御堂の天蓋の漆に100㍃㍍単位の宝石が練り込まれていたことは驚きであった。見えざる浄土ともいえる意図的な技法である。平安時代の彩色文様が、0・1 ㍉にもなる大きな顔料粒子で画かれ、浅深に盛り上げることによって影や反射など表情を変えていくことにも仰天した。とても小さく、しかもその中にさらに世界が広がり変化し続けるという華厳の宇宙観にも通ずる。
仏教思想に大きな影響を受けた日本人初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹は、松岡正剛に「素粒子の奥にはハンケチがたためるくらいの大きさの空間があるんや」と説明している。湯川は1956年原子力委員となり拙速な建設より基礎研究を勧めているが、57年鳳凰堂昭和修理が特集された『アサヒグラフ』巻頭で、着工が決まりかけた宇治川畔の千㌗原子炉設置計画反対者に対し、「学者の考えがこうまで信用されないなら原子力の平和利用などとうていできない」と憤慨している。反対運動は、平時ではなく地震や洪水時の制御不能を懸念したものであり、現在では発言を鵜呑みにする方は少ないであろう。湯川は決して自然を軽視したわけではなく『目に見えないもの』では、諸行無常に物理学の共通性を見いだし、ものの本質としている。
そういえば、ゴッホが弟テオ宛ての手紙に「あたかも己れ自身が花であるがごとく自然のなかに生き」と日本人を評し、ベルナールへの手紙には、単純な線から目まぐるしく変化する日本の色彩に憧れを記している。
湯川の19年後ノーベル文学賞を受賞した川端康成は、記念講演で「自分の死後も自然はなほ美しい」と西洋と異なる自然のなかに生きる透き通った姿勢を宣し、康成と心情を通じた東山魁夷は「風景は、いわば人間の心の祈りである」と述べ、墓碑には「自然は心の鏡」と刻まれている。科学や芸術、文学、工芸など、人はアート(あらゆる技)で自由に自然と交歓する。
1968年12月号『りぼん』の付録に赤塚不二夫らによる『聖ハレンチ女学院』がある。無意味な規制と差別をはねのけ自由に生き生きとした人生を求める少女たちの話である。72年『少年ジャンプ』8月14日号では、手塚治虫の発禁本『どろだらけの行進』が確認できる。自然淘汰としての殺人や公害などを狂気として、何が正しいか読後まで尾を引く話である。
鳳凰堂に残る日本最古の大和絵風来迎図は、四季と看取りという結びつきのなかでの死の瞬間を描く。
社会自体はすでに自然ではないが、ありのままに生長する人が残されている、と信じたい。
◉かみい・もんしょう
1962年愛知県生まれ。10歳で多くの尼僧の手により剃髪。91年、大正大大学院博士後期課程満期退学。93年より現職。現在、美術院監事、国立文化財機構運営委員、埼玉工業大理事などを務める。著書に『いのちの看取り』『臨終行儀-日本的ターミナル・ケアの原点-』『平等院物語 ああ良かったといえる瞬間』など著書多数。約30年、平等院のさまざまな修理に携わる。