賛同企業代表者 文化人 対談シリーズ
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- 2019元日 文化人メッセージ -

劉 建輝

失われた「絆」を再構築することが
日中相互理解への第一歩

劉 建輝
国際日本文化研究センター教授

去る2018年は日中平和友好条約締結40周年だった。しかしどの新聞のアンケート調査を見ても、日本人の中国に対する好感度が低く、いわゆる「嫌中」感情が依然として蔓延している。その原因は、もちろん尖閣諸島国有化の際に中国で起こった過激なデモの記憶や、近年の中国の軍事力増強などに由来する部分が大きいだろう。しかし、こういう政治や外交上の理由以外に、私は常々日中の間に相互理解を媒介する文化的ツールがきわめて脆弱であることも大きな要因の一つだと思っている。
たとえば戦前の日中文化人の例を挙げれば大変分かりやすい。今年は中国の新文化運動である「五四運動」発生100周年である。100年前の1919年に、作家の谷崎潤一郎が、それこそ各地で反日デモが繰り返されるなか、たった一人で北京や上海を訪れ、その激しい反日気運にいっこうに動揺することなく、というよりどこかでそれを楽しんでいる一面さえ見せていたのである。谷崎だけではない。彼に続いて、芥川龍之介や横光利一、金子光晴なども中国を訪れたが、その誰一人も反日の風潮に怯まず、いわゆる「嫌中」にもならなかった。それどころか、横光は反日運動そのものを素材に、『上海』という長編小説の傑作さえ書いていたのである。
中国側の知識人も同じである。たとえば日本でもよく知られる魯迅、周作人兄弟。前者は五四運動の旗手として国民啓蒙のために日本の白樺派文学を多数翻訳したのみならず、危篤に陥った際には周囲の反対を押して、敵国の日本人医師に自らの命を託した。後者は白樺派文学以外に、日本の古典、とりわけ江戸文学の翻訳や紹介に長年尽力し、そして日中開戦後もその作業を止めることなく、終始日本文化への賛辞を送り続けていた。
当時の日中の文化人はなぜこういう姿勢が取れたのか。私は、その背後に古代中国に対する揺るぎない尊敬の念を持つ日本人と、近代文明・文化を達成した日本に対する強い憧憬の念を抱く中国人相互の共通した文化的素養の基盤が存在したからだと思う。つまり両者を堅く結び付ける文化的、精神的な「絆」があったからこそ、たとえ国同士が戦を交えても根底から「嫌中」や「反日」にはならなかったのである。その意味で、制度的のみならず、文化的にもすでに「脱亜入欧」した今日において、少しでもこの失われた「絆」を再構築することが今後の日中相互理解への第一歩ではなかろうか。

◉りゅう・けんき
1961年、中国・遼寧省生まれ。遼寧大卒。神戸大大学院博士課程修了。文学博士。中国・南開大副教授、北京大副教授を経て、2013年より現職。16年より同センター副所長も務める。専門は比較文化、日中文化交渉史。著書に『増補・魔都上海―日本知識人の「近代」体験』『日中二百年―支え合う近代』『異邦から/へのまなざし―見られる日本・見る日本』など。