賛同企業代表者 文化人 対談シリーズ
経済面コラム 未来を思い描く

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〜次世代のメッセージ〜

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- 2019元日 文化人メッセージ -

末原達郎

食物や自然、他の生命に感謝する心
飢えの感覚をもう一度

末原達郎
龍谷大学 農学部教授・農学部長

第2次世界大戦を経て、75年が過ぎた。ほんの70年前まで、日本は食料不足国であった。飢えの感覚は、その頃、実在していた。政府の政策の最重要課題の一つも、人々を飢えないようにすることであった。人々自身にとっても、食べ物こそが最も大切で、家族の日々の糧を得られることが最大の望みであった。
それが、今はすっかり忘れ去られている。一見すると、食料は、日本の社会全体にあふれている。コンビニでもスーパーでも、食材や食品はあふれかえり、お金を出しさえすれば、食物はいつでも買える状況にある。今では、飢えの感覚を持っている人はごく少数にすぎない。
それとともに、食物に対する感謝の念も少なくなってきていると、私は思う。食べることができるのが当たり前の時代が長く続き過ぎたからだ。
食べることが厳しい時代では、食べ物を得るために、どれほどの命と手間と苦労が費やされているかが理解されていた。どのような食べ物であれ、それが植物であれ、動物であれ、人間は他の生物の命を頂いて、ようやく自らの命を保つことができるようにできている。
人間は、自ら光合成をしてエネルギーを確保することができない。われわれの身体を維持し続けるためには、魚や家畜、野菜など、他の生物の大切な生命を食べることが必要なのである。また、多くの人々が食物を獲得する過程で、農業や水産業、運送業、調理業に従事して食物を供給してくれているのである。そのことに対する感謝を、次世代の人々はしっかりと意識してほしい。
カードや現金を差し出せば、いつでもスッと食品が出てくるのは幻想である。市場経済で、全てが解決できるわけではない。
それは、自然の力と人間の努力と工夫の賜物なのである。したがって、天気が悪くなれば、農産物や食物は手に入らなくなってしまう。このことを、われわれは地震や台風に襲われて初めて気付く。自分たちの生命の基盤は、電気や水だけではなく、食べ物にもあることをしっかりと意識した上に、新しい社会づくりをしてほしいと思う。
人類の文明の大半は、食物確保に向けられていた。実は、現代日本文明の最大の弱点は、こうした食物生産への確固としたビジョンを持てていないことと、食物や自然、他の生命に感謝する心を忘れたことにある。飢えの感覚をもう一度取り戻すこと、そこから命への感謝が生まれてくるだろう。

◉すえはら・たつろう
1951年、京都市生まれ。京都大農学部卒、農学博士。京都大大学院農学研究科教授を経て、2015年より龍谷大教授・農学部長。和食文化学会副会長、日本アフリカ学会副会長。専門は食料人類学・比較農業論・アフリカ農耕論。著書に『人間にとって農業とは何か』『文化としての農業・文明としての食料』ほか。