日本人の忘れもの 知恵会議  ~未来を拓く京都の集い~

「言霊の幸はふ国」多くの日本人が
血の通った言葉を忘れた

味方 健
能役者
味方 健

◉みかた・けん
1932年、京都市生まれ。能役者、観世流シテ方。重要無形文化財(能楽)保持者。博士(文学)。観世寿夫記念法政大学能楽賞、京都市文化芸術協会賞、京都府文化賞功労賞を受賞。京都市文化功労者。能の舞台に意欲的に取り組む一方、研究者と演技者を結ぶパイプ作りに努力し続ける。著書に『能の理念と作品』、共著に『能・狂言辞典』など。

日本人は20世紀に多くの忘れものをしてきた。落としものといってもいい。今のうちに取り戻さなくては、取り返しのつかぬことになる。そして、忘れものをした本人たちがそれに気が付いていないとなると、事は悲惨である。
まず、多くの日本人が血の通った言葉を忘れた。もっとも、この世紀末的な世にあっても、文字言語・音声言語は必需のものとして、日常、使用されている。しかし、現代社会において、それは多くコミュニケーションの媒体に終わってしまっているのではあるまいか。古代人は言葉の霊妙な働きを信じ、言霊(ことだま)といった。わが国は「言霊の幸(さき)はふ国」、すなわち言葉の霊力によって幸いが生まれる国だというのである。言葉には、人の心緒が宿り、情念があり、情調がある。言葉は時間・空間を超えた普遍的なものをも表現し、感じさせる玄妙な力がある。日本人は、いや、世界の機械的文明国の人皆かもしれないが、日常、やりとりする言葉の中に、そういう世界を取り戻すべきである。つまり、シグナル的機能に堕(お)ちた言葉に、シンボルとしての世界を取り戻せ、というのである。
些細(ささい)なことと言われるかもしれないが、テレビやラジオで、昨今、鼻濁音が失われている。昔は、NHKなど、カ。キ。ク。ケ。コ。と表記して教えたものだ。発音の数、語彙(ご い)の数、文字の数の減少する時代とは、貧困な時代である。文化が疲弊し、精神の凋落(ちょうらく)する時代である。
日本人の使う言葉が痩せた一大原因は、高開発国通有の機械文明の発達、ことに電脳機器の高精度化が襲う以前に、GHQによって強いられた漢字制限、字形の簡略化、仮名遣いの改変がある。字形学的にも、音韻学的にも、理の通らない漢字字形の簡略化、語法的に理の立たない仮名遣い、格助詞、は・を・へのみに旧を残して、あえて「現代かなづかい」と称したが、「現代かなづかい」は仮名遣いではない。仮名遣いという以上、orthography(正字法)でなくてはならない。「現代かなづかい」はそれを装って、良識派の抵抗を避けた表音表記である。これは、文字表記としてまことに貧困で、安直な方法といわねばならぬ。なぜかといえば、文字とは言葉を表記するものであって、音を写すものではないからである。音を写すのは記号であって、決して文字ではない。アメリカの言語文化を支える者たちが、ちゃんとそれを知っているから、あの合理主義の国にあって、子どもたちはMississippiのスペリングを苦慮して覚えさせられているのだ。

味方 健

寺と門前町で参詣者を手厚く歓迎
忘れたくない信仰通じた人々の絆

森 清範
清水寺貫主
森 清範

◉もり・せいはん
1940年、京都市生まれ。15歳で清水寺貫主大西良慶のもと得度、入寺。花園大卒業後、真福寺住職などを歴任。88年、清水寺貫主・北法相宗管長に就任。現在、全国清水寺ネットワーク会議代表、文人連盟会長。著書に『見える命 見えないいのち』『こころの幸』など多数。

清水寺は昨年、記念すべき年を迎えておりました。先師大西良慶和上の三十三回忌の年忌に当たり、その法要が勤められたことが一つ。良慶和上が奈良興福寺から清水寺に晋山して開講された盂蘭盆(うらぼん)法話が百年、つまり百回を迎えたことが一つ。盂蘭盆法話は今日、各寺院で夏に暁天講座として開講されている法話会の草分けとなったものです。いま一つは、和上が晋山してすぐに結成された男性信者の普門会と、女性信者の音羽婦人会の伝統を引き継ぐ信者の法話会・音羽会が千回となったことです。盂蘭盆法話も信者組織も、明治の廃仏毀釈(きしゃく)で荒廃した清水寺を復興へと導く契機となりました。
このありがたくも記念すべき年に、かねてから念願しておりました『清水寺成就院日記』が刊行されました。『成就院日記』というのは当山が所蔵する古い日記です。1694(元禄7)年から1864(文久4)年まで170年間、220冊あり、京都市指定文化財となっています。貴重な日記を翻刻しようと作業を進めてきたのですが、昨年4月、記念の年に花を添えて第一巻が出たのです。
成就院というのは、清水寺の本願職を担う僧坊で、江戸時代は幕府の絶大な後ろ盾を得て、寺の財政や寺領の管理、門前町の治政を担当していましたので、日記には門前町や境内のあらゆる出来事が記録されています。
諺(ことわざ)で「清水の舞台から飛び降りる」といいますが、日記には実際「飛び落ち」が記されています。170年間に235件もあります。しかし85%は助かっていて、この舞台飛び落ちは、本尊の観音様への祈願だったことが分かります。例えば、第一巻にも1701(元禄14)年4月15日午後4時ごろ、油屋清兵衛の姪(めい)で19歳の娘きわが舞台から飛び、そのまま帰ろうとするので、門前町の人が引き留め事情を聞くと、主人のための願いだとあります。そして門前町の人が清兵衛のもとに娘を送り届けています。
江戸時代、お伊勢参りが盛んでしたが、福知山からきた姉弟が清水寺の門前に参ったところ、姉の方が気を失い倒れることがありました。門前町の人たちが介抱し、医者に見せて親切に人参(にんじん)を煎(せん)じ飲ませました。その報告が成就院に届けられ、寺はしっかり養生させるように申し付けています。最後は回復した姉弟に路銀三百文を与えて帰しています。
寺と門前町とが参詣者を手厚く迎え、お世話していたことが分かります。日記は日本近世史の貴重な史料ですが、人々の厚い人情も伝わってきます。この心は忘れたくないものです。

森 清範

こころに響かなくなった。
語りが意味不明の音声に変質

山折哲雄
宗教学者
山折哲雄

◉やまおり・てつお
1931年、米国生まれ。岩手県出身。東北大大学院文学研究科博士課程修了。「宗教と現代社会」を終生のテーマとし、幅広いジャンルにわたり作品を発表。国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター所長などを歴任。専攻は宗教学・思想史。『愛欲の精神史』で和辻哲郎文化賞を受賞。著書は『近代日本人の宗教意識』など多数。

「大音声(だいおんじょう)」というものに接することがなくなりました。
「獅子吼(ししく)」を耳にすることがほとんどなくなったことも寂しいかぎりです。
大音声といっても、獅子吼といっても単なる言葉の問題ではありません。言葉をのせる土台、つまりわれわれ人間の声の質が弱々しくなっているということはないでしょうか。いきおい言葉に力が入らない。
とにかく、巷(ちまた)から聞こえてくるいろんな声が耳元に届かなくなりました。それ以上に、こころに響かなくなった。ほとんど騒音、雑音と見分けのつかない声、声であふれ返っている。
テレビの画面から聞こえてくるキンキン声の早口言葉には、とてもついてはいけません。電車に乗れば、神経を逆なでするだけの車内放送……。
それに、国会における政治家たちの答弁や質疑の棒読みは、おなじみの光景です。そこはかつて大音声や獅子吼の大舞台だったはずですが、その晴れ姿も今日ではほとんど見ることができません。それどころか、野次(やじ)や怒号の飛び交う馴(な)れ合いの乱闘場と化しているありさまではありませんか。
街頭でも、車の中からマイクを通してなら、大音声らしきもの、獅子吼らしきものは聞こえてくる。けれども、街頭に両足で立って発せられる肉声の大音声や獅子吼に接することはもうほとんどなくなりました。肉声が聞こえてこないから、こちらの肉眼でその人物の品定めをすることもできない。
考えてみれば、「辻(つじ)説法」なるものがすでに死語になっているですから、無理もない話であります。お葬式に出ても、お坊さん方の読経の声がなかなか大音声や獅子吼にならない。あれでは、亡くなった方々の魂は冥界をさ迷(まよ)うだけではありませんか。
同じことが、今日流行(はやり)の漫才の世界なんかにもいえるのではないでしょうか。あの早口でまくし立てるやりとりのうち、私などは半分も聞き取ることができないありさまです。あれはただ、話の中身をごまかすための窮余の一策ではないかと邪推したくもなります。
落語の高座からも同じような風が吹いてくるようになりました。名人、次期名人と呼び声の高い人の語りを聞いていても、そのあまりの早口にとてもついてはいけないことがあります。おそらく時間が制限されているためなのでしょう。いきおい語りのリズムが崩れ、語りそのものが意味不明の音声に変質してしまっているのです。

肺腑(はいふ)をつらぬく大音声が聞きたい。
大地を震憾させる獅子吼が聞きたい。

山折哲雄

「奇」が当たり前のように存在する
別の価値軸を認める懐の深さ

鷲田清一
哲学者
鷲田清一

◉わしだ・きよかず
1949年、京都市生まれ。京都大大学院文学研究科博士課程修了。関西大教授、大阪大教授、同総長、大谷大教授を経て、現職。せんだいメディアテーク館長。専攻は哲学。サントリー学芸賞、桑原武夫学芸賞、読売文学賞。主著に『「聴く」ことの力』『モードの迷宮』『哲学の使い方』『しんがりの思想』など。

奇人を遊ばせておく文化、変人を抱擁する文化が、かつて京都にはあった。
子どもの頃に聞いたので、下鴨だったか古門前だったか、町名は定かではないのだが、「○○の三奇人」という言い方をよく耳にした。変人ではあるのだが、奇人と呼ぶときにはどこか、常人には測りがたい破格の人という響きがある。そんな破格の人を、昨年も幾人か喪(うしな)った。年々、「奇人」が減っていくのは寂しいことである。
「奇」とは、「偶」に対する「奇」、整形に対する「破形」を意味する。柳宗悦によれば、「形を不均斉、不整備のままに置く」こと。そしてこれをあえて「奇」と呼ぶのは「割り切れないものを現すため」だという。
柳がこれを『茶道論集』の中で書いていることからもうかがわれるように、身近なところで破形を愛(め)でてきたのはお茶人たちである。歪(いびつ)な「器」と「数奇」の設(しつら)えにである。そういえば昨年、琳派四〇〇年を記念するイベントが続いたが、鷹峯の本阿弥光悦もまた「数奇」の人であった。ちなみに、これをのちに「数寄」と書くようになったのは、「数奇の運命」といわれるように、漢語の「数奇」が「不倖」を意味するからだといわれる。
「奇」は「完(まった)からざるもの」である。完全なものはすでに「割り切れて」いて、余韻も暗示もない。つまりは「自由」が、「ゆとり」(最近は「糊(のり)代」にひっかけて「伸びしろ」などともいわれる)がない。しかし「奇」として「不完全を狙う」のもまた不自由に違いない。だから、「奇」において重要なのは、「偶」か「奇」かにこだわらぬ、そのような「無碍(むげ)」の境地だということになる。そこにおいてはじめて「足らざるに足るを知る」ことも成り立つ。
奇人が「奇」であるのは、日々の生業に没頭、というか埋没している人たちが思いもしないところに価値の軸を置いているからである。世を見る視線の射程が驚くばかりに広いからである。常人が思いもつかない思考と趣味、だから「奇」と映るのである。そういう「奇」が当たり前のように存在しているまちは懐が深いといえる。風情が厚いともいえる。一つの価値で測り得ないほど多様だからだ。こんな別の価値軸がありうるということが、人が大きな困難に直面してにっちもさっちもいかなくなったときに、思わぬ明かりを灯(とも)してくれる。人のふり見て我(わ)がふり直せということわざも、元はそのようなプラスの意味で言われていた。

鷲田清一