日本人の忘れもの 知恵会議  ~未来を拓く京都の集い~

京都は今も「ミヤコ」と言えるのか
大正・昭和の「大礼」にヒントあり

所 功
京都産業大学名誉教授
モラロジー研究所教授
所 功

◉ところ・いさお
1941年、岐阜県生まれ。名古屋大大学院修了。法学博士(慶応大・日本法制文化史)。皇學館大、文部省を経て京都産業大教授、現在、同名誉教授・モラロジー研究所教授。2014年、京都新聞教育文化賞受賞。著書に『平安朝儀式書成立史の研究』『菅原道真の実像』『京都の三大祭』など。

お正月は、物事を根本より見直す好機でもあります。そんな思いから、京都は今なお本真(ほんま)に「ミヤコ」といえるのか、考えてみたいと思います。
その答えは、「ミヤコ」という言葉をどう考えるかによって分かれます。ミヤコとは、本来「ミヤ」(宮=皇宮)のある「コ」(処=所)を意味します。そうであれば、京都は桓武天皇の平安遷都以来、1075年の長きにわたり、名実ともにミヤコでした。
しかし、明治2(1869)年、数えで17歳の天皇が東京へ行かれ、旧江戸城を「宮城」(皇居)とされて以来、京都の御所は天皇常住のミヤでなくなりましたから、もはや京都は奈良などのような「古都」(廃都)にすぎないのでしようか。
確かに明治初年の京都は、主(あるじ)を失って急に寂れ衰えはじめました。けれども、それを最も憂慮されたのが、京都で生まれ育った青年天子にほかなりません。具体的には明治11(1878)年、保存の一策として「将来わが朝の大礼(たいれい)(皇位継承に伴う即位礼と大嘗祭)は京都にて挙行」する方針を示されています。即位礼は新天皇の就任を国内外に披露する儀式、大嘗祭は新穀を供えて神々に平安を祈る祭礼です。
そこで、政府要人が検討を重ねて、同16年「京都を即位礼・大嘗祭の地と定め、宮内省に京都宮闕(きゅうけつ)(皇宮)を管せしむ」ことになりました。それが、同22年制定の「皇室典範」に明文化されたのです。これによって、京都御所は東京の皇居と共に「皇宮」の一部と位置付けられ、京都はミヤコの役割を回復できたことになります。
そのおかげで、大正4(1915)年11月と昭和3(1928)年11月の大礼は、ミヤコ京都で見事に実施されました。しかも、それを機として御所の周辺も京都の市街も面目を一新し、古来の伝統工芸も新興の観光事業なども一挙に活気づいたのです。
しかし、戦後の新皇室典範には、旧典範の規定が削られ、平成の大礼は東京で挙行されました。けれども、京都御所がミヤではなく、京都がミヤコと称し得なくなったわけではありません。現に、京都御所には今なお宮内庁の事務所が置かれ、また平成の大礼でも用いられた高御座(たかみくら)と御帳台(みちょうだい)(天皇と皇后のシンボル)は紫宸殿にあり、さらにそれらを「皇宮」警察が護衛しています。
ただ、このようにして明治以降も、御所がミヤの機能を回復し維持できた先人たちの努力と本質的な意義は、現在の京都人に十分認識されているでしょうか。京都が今後も本真に「ミヤコ」であり続けようとすれば何をすべきか、みんなで考えてほしいと思います。

所 功

自然への敬意、森の恵みに感謝し
日本の木の文化を伝えていきたい

中川典子
銘木師
中川典子

◉なかがわ・のりこ
京都市生まれ。幕末に坂本龍馬をかくまった材木商であり、創業295年の屋号「酢屋」、千本銘木商会にて銘木加工技術の特長を生かし、木のコーディネートを店舗や住宅、家具などに展開。木のある暮らしの豊かさを伝え、森と街をつなぐ。京都の若手文化継承者たちで結成した「DOYOUKYOTO?ネットワーク」の呼びかけ人。千本銘木商会常務取締役。

昨年、21年に一度の上賀茂神社(賀茂別雷神社)式年遷宮文化行事に携わらせていただいた。日本一長い8㍍の絵馬『孝明天皇御幸記』を復元するにあたり、その長い吉野杉一枚板と木曾桧(ひのき)の額縁材をお納めした。
オリジナルの絵馬は古びて絵馬の内容が分からない。けれども、杢目(もくめ)の凹凸は雄々しく浮かび上がり一枚板の風格を表している。同じような杉板が探せるだろうか、半年探し回り、奇跡のごとく手に入れることができ、ご加護やご縁を深く感じた出来事だった。
式年遷宮を見学した国内外の多くの方々が口をそろえておっしゃるのは、社殿、社家などに見る日本建築、特に木造の素晴らしさ。そして素材である木の生かし方、その技術が感動を呼んでいた。
世界には、材木屋、銘木(めいぼく)屋という職種がない。日本固有の職業だ。特に「木取り」は大木を製材する際に、一木からどんな材料を取れるのか、木味はどうか、杢柄(もくがら)はどのような美しさを描くかと、想像力を駆使し木を生かす設計図を年輪に書く作業。場慣れしてくると、製材時に頭の中でしてしまう木取りは、世界から称賛される木材技術。そしてもったいない精神を深く表した技術でもある。
京都は、幕末の頃から専門性のある銘木屋が発展してきた。美意識の高い京都人の室礼(しつらい)を築くため、全国の樹種から適材適所を取り合わせてきた。それは、今でも変わらない。しかしながら、人智を超える異常気象、地震、林業従事者の高齢化、里山の不備など、山や森は危機的に荒廃している。夏が長く、秋が短いため、木々の年輪の目詰まりが緩くなり、伐(き)り旬が年々遅れていく。祖父や父の時代とは、木材の木質が悪化し、確実に地球温暖化は進んでいる。
2016年、本年は京都で「森の京都」と「全国育樹祭」が開催される。私たちは、未来の自然に何を残せるのだろうか。川端康成氏が日本の美と称した北山杉の景色を守れるのだろうか。
日本の林業、木材業が明らかに世界と違うのは、建材、資材を生産する姿勢ではなく、常に自然に勝てないと敬意を持ち、森の恵みに感謝し、生きた素材づくりに根差していることに尽きる。世界の温暖化に提言した京都議定書発祥の京都から、木に生きる職人として日々の適材づくりに励み、世界に類を見ない樹種の豊富さを究めていくとともに、日本の木の文化を背負っている使命を忘れず、後世に伝えていきたいと思う。

中川典子

情報社会において考えや文化の違いを
許容することの重要さを思う

中西重忠
京都大学名誉教授
中西重忠

◉なかにし・しげただ
1942年、岐阜県大垣市生まれ。京都大医学部卒業。医学博士。専門は分子神経科学。米国国立衛生研究所留学、京都大医学部、同大生命科学研究科教授、大阪バイオサイエンス研究所長を経て、現在、SUNBOR所長。日本学士院会員、米国科学アカデミー外国人会員、恩賜賞・学士院賞受賞、2015年、文化勲章受章。

人の高次な精神活動や社会行動を制御する脳機能は、先史時代からの長い間にわたる進化の過程で形成されたものである。この間にわれわれは的確に外部情報を認識し、円滑な社会活動ができるように感覚系(五感)と情報を処理・統合する神経機構を発達させてきた。すなわち、他者と対峙(たいじ)する際に、相手の言葉を聞き取るだけでなく、その人の表情や雰囲気、その場の状況を把握し、他人の意思や行動を理解しようとする。
これに対して、近年、IT技術が著しく進歩し、ITを使って他人と接触するという情報伝達手段の革命的な変化が起こっている。ITは迅速な標準化された情報伝達手段として極めて優れたものである。しかし、われわれの五感による脳の働きとITを介した脳の働きとは明らかに異なるものである。
人類は飢餓に対する生体防御機構を発達させてきたが、ここ数十年の飽食の時代を迎え、それに対する防御は弱く、成人病増加という問題に直面している。同様に、人は社会生活の中で、五感を通して認識、感情、思考といった高次な脳機能を発達させたものであり、われわれの脳機能はITという新しい情報伝達に必ずしも適切に対応できない状況が生じている。革命的な情報伝達手段の変化が、人と人のコミュニケーションに多大な影響と問題を生み出していることを忘れてはならない。
一方、情報を獲得、処理・統合し、それを維持する学習と記憶は脳活動に必須の機能である。学習と記憶は単に健康的な生活を営む上で重要であるのみならず、学習し記憶した事柄は親から子へ、また周りの人にも伝えられ、この脳活動は豊かな社会を築く上でも不可欠なものである。さらに、学習と記憶によって生み出された先人たちの叡智(えいち)は次の世代に伝えられ、このことが文化を生み出す元となる。同じ状況の中でも記憶として残るものが人によって異なることはよく経験するところであり、この脳活動の違いが異なる考えや個性を生み出す上で重要な要素となる。さらに、集団社会における学習と記憶の違いが異なった価値観や独自の文化を生み出す元ともなる。従って考え方の違いや文化の独自性は、私たちが進化の過程で獲得してきた学習・記憶という素晴らしい脳活動の一つの帰結であり、グローバル化し、均一化に陥りがちな現代の情報社会において、私たちは考えや文化の違いを排除するのでなく、多様性をいかに意味あるものにするかが問われている。

中西重忠

日本の先人の知恵とメンタリティーを
今こそ世界が必要としている

松井今朝子
作家
松井今朝子

◉まつい・けさこ
1953年、京都市生まれ。早稲田大大学院文学研究科演劇学修士課程修了後、松竹に入社、歌舞伎の企画・制作に携わった後、97年に作家デビュー。『仲蔵狂乱』で第8回時代小説大賞、2007年に『吉原手引草』で直木賞受賞。小説、エッセーなど著書多数。

お正月の三が日、ただじっと見ているだけで箸(はし)をつけない尾頭付きの睨(にら)み鯛。京都にはなぜこんな風習があるのか、私は子ども心にとても不思議で、要はそれを食べないで我慢する、いわば禁欲の試金石みたいなものだろうと勝手に解釈していました。半世紀前の子どもはまだそんなふうに考えるほど、欲望を抑えることが美徳として、日本人の心に強く刷り込まれていたのでしょう。
日本という小さな島国は、豊かな自然に恵まれて食糧が得やすかったせいか、大昔から比較的地球上の人口過密エリアだったようで、時に自然が猛威を振るうと、たちまち飢餓に襲われました。
たとえば江戸時代の三大改革と呼ばれる享保、寛政、天保の改革はいずれも富士山や浅間山の噴火、極端な気象異常といった自然災害の直後に行われています。幕府はまず物価抑制策として質素倹約を求めました。庶民も当初はその政策を大いに歓迎するけれど、すぐにまたそれが不平不満の的になったのは景気が悪化してしまうからです。
近年の東日本大震災直後にも自粛ブームが起きて、自主的な省エネに勤(いそ)しみながら、喉元過ぎればでそれがあまり長続きしなかった例にも、昔と変わらぬ日本人の庶民感情がよく表れているように思われます。
幸い鎖国をしていない今日では、お金さえあれば世界中のあらゆる物資が手に入るので、質素倹約して我慢する必要などありません。イノベーションの急激な進展に伴い、世界中がともすれば生産過剰に陥る中で、欲望に駆り立てられるのが現代の消費経済社会です。そこでは欲望を抑えて質素倹約をするよりも、欲望の赴くままに大量消費して経済を活性化することのほうがむしろ美徳とされているのかもしれません。
そうした社会の行く手には何が待ち受けているのか。地球の資源を奪い合ってでも経済発展を遂げるのが世界中の国是となれば、国よりも先に地球が滅んでしまうのは、今やさすがに世界中の誰もが理解しています。にもかかわらず長年の消費経済にどっぷり浸(つか)った私たちは、もっと豊かに、もっと便利に快適に暮らす欲望を抑えるのが困難なのです。
限りある地球上で人類が生き延びる方法を模索するため、限られた島国で欲望を適度にコントロールしながら生き抜いてきた日本の先人の知恵とメンタリティーを、今こそ世界が必要としているのではないでしょうか。

松井今朝子