日本人の忘れもの 知恵会議  ~未来を拓く京都の集い~

受け継いできた「心」の中にある
清く明るく正しく直く生きる術

田中恆清
石清水八幡宮 宮司
田中恆清

◉たなか・つねきよ
1944年、京都府生まれ。69年、國學院大神道学専攻科修了。平安神宮権禰宜、石清水八幡宮権禰宜・禰宜・権宮司を経て、2001年、石清水八幡宮宮司に就任。02年、京都府神社庁長、04年、神社本庁副総長を務め、10年、神社本庁総長に就任。

最も古く、最も新しい場所。それこそが神社や寺院であり、数多くの歴史ある神社・寺院を有する、歴史と伝統文化の精神的支柱としての神仏和合の宗教都市・京都の地もまた、もちろんそうであると私は考えます。
古来、有形無形を問わず、その時代時代の最高のもの、最新のものが、まずもって神仏に捧(ささ)げられ、大切に守り伝えられてきました。
人々は、山川草木など自然万物は元より身近なものに至るまで、そこに神々の存在を見いだし、「もの」を大切にしてきました。その「もの」とは、自分自身の生き方や考え方を映しだす「心」であり、まず始めに大切にするべき「心」の一つが「感謝の心」であると思います。
私たちは、自然の恵みによって生かされている、自分の周りの人々やものによって生かされているという感謝の念を捧げる場所が神社・寺院であるといえましょう。そこには、他の人を思いやり、万物の平和を願う心、祈りの心が、おのずと芽生えてきます。
そして私たち日本人は、その心を忘れることなく、次の世代へ、また次の世代へと受け継いできました。
当然ながら、戻ることなく過ぎゆく時間、時代とともに人もまた移り変わっていきます。目の当たりにしていた世界が、いつかは変わっていきます。それを避けることはできません。しかし、その「心」を繋(つな)いでいくことはできるはずです。
目まぐるしい速さで変化し、大量にあふれ出す昨今の情報化社会において、物事の本質を見極めることは決して容易なことではありません。
変わるべきものと変わらざるべきもの。この表裏一体の大切さはよくいわれることでありますが、もともとその判断すら難しいものが、現代においては判断する材料を見つけることさえ困難でしょう。
しかし、そのヒントは、私たち日本人が先人たちから受け継いできた「心」の中に必ずあります。悠久の歴史の中で受け継がれてきた神仏への畏敬の念、自然万物への感謝の心、先人たちの叡智(えいち)の中にこそ、清く明るく正しく直(なお)く生きる術がつまっています。そして今に生きる私たちは、今の時代に寄り添った形を求めながら、未来のために、次代のために、その「心」を大切に守り伝え、変化を恐れずに歩みを進めなければなりません。
神仏の御加護をいただき、多くの伝統文化を継承してきた日本人の心宿る京都が、ますますその発信の拠点として、最も古く、最も新しい場所で在り続けることを願ってやみません。

田中恆清

京に残る多くの文化遺産には
まだ意外な可能性が秘められている

辻 惟雄
MIHO MUSEUM 館長
辻 惟雄

◉つじ・のぶお
1932年、名古屋市生まれ。東京大大学院修了。東京大教授、国際日本文化研究センター教授など歴任後、多摩美術大学長を経て2006年7月から現職。著書に『奇想の系譜』『日本美術の歴史』など多数。絵画史を書き換える画期的な著作を発表し、伊藤若冲らの再評価の火付け役になった。

昨年は、光悦の芸術村が家康に許されてから400年を記念しての催しが賑(にぎ)やかだった。光悦、宗達、光琳、乾山―彼ら琳派の天才たちは、共に17世紀の京都町人で、伊藤若冲は、京都錦小路に生を受けた商人の出身だった。
光悦の家業は武家に伝わる刀剣の鑑識と研ぎ。光琳は、宮廷に小袖を用達する雁金屋の出身。宗達の家業は「絵屋」と呼ばれたが、現在いうところの「絵画」ではなく、扇や提灯(ちょうちん)、料紙の下絵など、日用の調度品を装うための「え」である。戦災を免れた京都には、今もそうした「工芸的美術」が息づいている。三世、四世によって受け継がれている伝統の技である。
それに比べ、京の町そのものはどうか。 JR京都駅から南に下った一帯の眺めは、高速道路や倉庫などの建築物によってすっかり荒れ果てた。線路より北の方はまだ無事だが?。
東京の西隣に住みながら、年老いて私がますます感じるのは、京都が日本文化のよりどころだということである。19世紀における西洋文明との出会い以来、それは消滅の危機にさらされた。京を愛した川端康成は、親交のあった東山魁夷に「京都の景観はまもなく亡くなるから、今のうちに描き留めておくよう」勧めた。現在の京都の風景は、川端の予言通りになりつつあるのだろうか。
とはいえ、残されたものもまだある。京都の街並みは今でも清潔に掃き清められている。世界の大都市の中で恐らく他に類例はあるまい。塵(ちり)一つないまでに清められた神社の境内、磨き上げられた禅僧の座禅の場、茶の湯の庭の手水(ちょうず)…、これらが京の人心に沁(し)み込んだ結果だろうか。その誇りのよりどころである京の町の姿を、少しでも長く留めなければならない。
琳派400年の京都シンポジウムに加わらせていただいたことで、私が感じたのは、「琳派は京都のものだ」という誇りだった。京都府の主催により昨年行われた琳派400年記念美術コンクールでの最高賞の一つが、光琳の「燕子花図?風(かきつばたずびょうぶ)」の画中に咲き並ぶ花の一つ一つの高低と間(ま)をそのままコンピューターでスコアに写し、電子音楽として再生させたものだった。光琳の視覚を現代の聴覚に置き換えたこの試みは、音楽に疎い私の耳にも斬新な音とリズムを伝えてくれた。京都人の意地と心意気がそこにはあった。この作品はパリでも紹介されたと聞く。
琳派だけでなく、京に残る文化遺産のさまざまには、まだ意外な可能性が秘められている。それをどう引き出すかは、若い世代に課せられた課題であろう。

辻 惟雄

京都は単なる観光都市ではなく
千年の歴史を持つ都市である

土岐憲三
立命館大学衣笠総合研究機構
歴史都市防災研究所 教授
土岐憲三

◉とき・けんぞう
1938年、香川県生まれ。66年、京都大大学院工学研究科博士課程修了。76年、京都大防災研究所教授。京都大大学院工学研究科長、工学部長、京都大総長補佐、立命館大理工学部教授、立命館大都市防災研究センター長などを経て現職。専門は地震工学。NPO「災害から文化財を守る会」理事長、「明日の京都 文化遺産プラットフォーム」副会長などを歴任。

平安京が1200年前に造営されたときに、みやこの表門として設けられたのが羅城門である。それから200年足らずの間に二度の大風にみまわれて倒壊して以後は忘れ去られていた。大正時代に芥川龍之介により小説「羅生門」として蘇(よみがえ)り、そして昭和には黒澤明の同名の映画として、広く知られるようになったのである。
京都の建都1200年祭には羅城門の復元が話題になったが、いわゆる箱物であるとして実現しなかった。しかしながら、大工をはじめとする職人さんたちが誇りをもって腕によりをかけ、模型を製作して京都市に寄付した。模型とはいえ、規模が十分の一であるものの、材料や構造は細部にもこだわって、時代考証を経て建造当時の羅城門に限りなく近く製作されている。その後は曲折を経て、現在はJR京都駅正面の東隣のメルパルクビルの地下に収まっている。横幅が約12㍍、高さが3㍍弱であり、朱塗りの美しい姿を見ることができる。
4年前に発足した「明日の京都 文化遺産プラットフォーム」は、各種の短期・中期・長期プロジェクトを計画・実施中であるが、それらの中で実現までにもっとも長期間を要する事業が羅城門の復元計画である。この計画の実現には多くの費用と数十年に及ぶ年月を要するであろうが、その意義の理解と支援を得るために、多くの人々が訪れる京都駅前に模型を地下から取り出して設置することを計画中である。百聞は一見に如(し)かずである。そして、京都人と京都を訪れる人々が少額の費用を出し合い、模型の10倍の大きさの羅城門を、数十年をかけてでも自分たちの手で復元しようという事業である。
この計画の目的は羅城門を復元することもさることながら、1200年前の木造建造物の造られる過程を理解することも目的の一つである。そして工事中にも7間扉の中央扉だけは常に開いておけば、人々がこの平安京の表門から京都に入ることで、古(いにしえ)の都人の気持ちを思い浮かべられるのである。
いま、京都を訪れる人は眼前に広がる景色を一枚のパノラマ写真としてしか見ることができない。その写真の中には歴史年代は記されていなくても、写っている全てのものはそれぞれが異なる歴史を持っており、10年前と100年前の写真には違ったものが写し撮られているのである。そして千年前に遡(さかのぼ)れば無残に崩壊した羅城門も見える。その羅城門の再建途上の様子と現在の京都の歴史的建造物とを重ねて見ることを通じて、京都は単なる観光都市ではなく千年以上にわたる歴史を持つ都市であることを実感できるであろう。

土岐憲三

「声」が主流だった日本の伝統音楽
感性より、美の規範性という問題

時田アリソン
京都市立芸術大学
日本伝統音楽研究センター所長
時田アリソン

◉ときた・ありそん
1947年、オーストラリア・メルボルン生まれ。69年メルボルン大文学部卒。89年、モナシュ大学(日本研究学科)博士課程修了。モナシュ大学日本研究学科准教授、同大日本研究センター所長、東京工業大外国語研究教育センター教授などを歴任後、京都市立芸術大学伝統音楽研究センター客員教授を経て現職。専門は語り物、三味線音楽、東アジアの音楽と近代。

声のための作品が少ない。現代邦楽の話である。作曲家は和楽器を使って素晴らしい曲を作ってきたが、日本の伝統音楽の主流は声である。
数少ない中に、例えばソプラノと箏(そう)を組み合わせた作品が複数ある。地歌がもとになっているのだろう、地歌は箏と演奏するから。作曲者は日本の伝統音楽の声をよく知らなかったのだろうか。宮城道雄など邦楽出身の作曲家も、じつはあまり声の作品を書いていない。箏を習う場合、地歌は最後になるのがしきたりだが、箏曲家も器楽のほうを好むらしい。
おそらく、どんな声が美しいか、という問題だろう。明治時代初めて西洋のオペラを聴いた日本人は不愉快になった。同じ19世紀に西洋人が三味線の伴奏で日本の歌を聴いたとき、音楽ではないと感じている。西洋クラシックの声と邦楽の声があまりに違うので、両方を鑑賞しにくいことは分かる。そこには感性よりは、美の規範性という問題が横たわっている。日本人の耳が西洋音楽に向くようになってから、西洋の声が「自然」で「美しい」はずだと思うようになってもおかしくない。
日本の歌声は近代に入って、西洋音楽の声と発声に切り替わっている。明治政府の音楽教育政策の焦点は唱歌であり、モデルは異文化である西洋だった。西洋の民謡や歌曲の旋律をそのまま利用して、日本語の歌詞をあてた。音階は長調と短調で、都節(みやこぶし)、民謡音階はそこにはない。小学校教育から日本人の耳は変わり始めた。その影響は軍歌、童謡、歌謡曲、演歌、J―ポップまで及んだ。こうして日本の声を聴くことは勧められず、機会も少なく、その存在すら知らなくてもよくなった。
地歌、浄瑠璃など近世邦楽の声は渋いし、民謡の声は小節(こぶし)が多くて滑らかさを欠き、とくに囃子詞(はやしことば)などあられもなく感じられて、なじまない人もいるだろう。だが、時間を遡(さかのぼ)るともっと素直な声がある。能の謡はオペラの低い声部の発声法と共通するところがあり、のびやかであり、声明(しょうみょう)はビブラートはないが豊かなメリスマを持ち、雅楽の歌である催馬楽(さいばら)や東遊(あずま)びの声と同じように澄んで、魅力的なのである。
ブルガリアの地声合唱、モンゴルの喉を緊張させて歌うホーミー、アフリカの歌手ンドゥールのような素晴らしい声に惹(ひ)かれる人たちがいる。もとより民謡ファンは多く、浪花節もかつては大衆的な人気を誇り、今でも一部の熱心な聞き手がいる。私たちはそのような声に対する感受性を持っている。日本の特有な、伝統的な、多様な、魅力的な声を、いろいろなところで聞かせてもらえないだろうか。

時田アリソン