日本人の忘れもの 知恵会議  ~未来を拓く京都の集い~

教養教育の視野を広げ
技術オンリーの開発から脱却

佐和隆光
滋賀大学 学長
佐和隆光

◉さわ・たかみつ
1942年、和歌山県生まれ。東京大大学院修了後、京都大経済研究所長、京都大エネルギー科学研究科教授、国立情報学研究所副所長を経て、2010年から現職。専攻は計量経済学、環境経済学。07年紫綬褒章受章。著書に『グリーン資本主義』ほか。

かつては自動車産業と並ぶ外貨の稼ぎ頭だった電子産業の衰退ぶりが際立つ。電子産業の貿易黒字は、1985年に10兆円弱でピークアウトし、その後は漸減傾向に入り2007年に6兆円。08年以降は急落し、13年にはついに赤字に転落した。同年、電子部品は4兆円弱の黒字だったのだが、電子機器の貿易赤字は、それを上回る金額に達した。要は、スマートフォン、タブレット、ノートパソコンなどの電子機器の分野で、日本のメーカーの国際競争力が著しく衰弱したのである。
スマホの世界市場でのメーカー別シェア(15年第2四半期)を見ると、サムスン、アップル、華為(ファーウェイ)、小米(シャオミ)、レノボの順に並ぶ。これら5社が世界市場の55%を占める。日本の各社のシェアは軒並み1%未満にとどまる。なぜ日本の電子産業はここまで衰退したのか。
2011年3月、アイパッド2の発表会でのスピーチを、スティーブ・ジョブスは次のような名せりふで締めくくった。「アイパッド2のような、人々の心を高鳴らせる製品を生み出すには、技術だけでは駄目なんだ。人文知と融合した技術が必要なんだよ」と。この言説に対し、ロンドン・エコノミストの記者は、「技術一本やりの会社のトップの発言としては極めて異例だが、さすがスティーブ・ジョブスならではの名言だ」とコメントしていた。
この記事を目にして私は、謎が解けたとの思いがした。79年に共通一次試験(後のセンター試験)が導入されて以降、国立大学の入試に異変が生じた。それまでは、国立大学入試科目は、文系・理系とも、英語、数学、国語、理科・社会それぞれ2科目ずつと、ほとんど差がなかった。国立大学工学部の新入生の多くは、ひとかどの人文知を備えていたし、文学作品にも慣れ親しんでいた。学生運動が盛んなころには、工学部の学生も、専門の授業の合間に読書や議論をして、人文知を磨くことに余念がなかった。ところが、センター試験では、大部分の国立大学理系学部の個別試験は英数理の3科目に絞られるようになった。加えて、91年の教養教育自由化によって、大学入学後に人文学・社会科学の知識を身に付ける機会が乏しくなった。
結局、エンジニアから人文知の習得の機会を奪ってきたことが、日本の電子産業の不振の理由なのだ。今、理系重視・文系軽視の文教政策がますます先鋭化する傾きにあるが、それが日本の産業競争力の低下につながることを強調して本稿を締めくくろう。

佐和隆光

伝統を守ることは
新しい境地を加味していくこと

茂山七五三
狂言師
茂山七五三

◉しげやま・しめ
1947年、京都市生まれ。人間国宝4世茂山千作の次男。父および祖父故3世茂山千作に師事。95年2世七五三を襲名。多くの海外公演に参加するほか、新作狂言にも多数出演。2007年京都府文化賞功労賞受賞。11年京都市文化功労者受賞。「お米とお豆腐」同人。大蔵流狂言師。

狂言の家らしく、茂山家では笑いから1年が始まります。1日に謡初め、4日に一門が集って「小舞」などを舞う舞初め式があります。
1月3日の八坂神社(京都市東山区)と多賀大社(滋賀県多賀町)、大槻能楽堂(大阪市)が、毎年最初の舞台です。私も、大槻能楽堂の舞台に出演します。今年の演目は申(さる)年にちなみ、吉野の猿が嵐山に聟入りする「猿聟(さるむこ)」です。
お正月に、神社のようなオープンな場所で狂言を演じて老若男女さまざまな方々に初笑いをお届けすると、多数の人たちに笑っていただいた狂言のルーツを思い出します。今はすっかり少なくなってしまいましたが、以前は京都の寺社では、春秋に能楽奉納が催されていました。地蔵盆にも狂言がありました。茂山家では、数えで4歳が初舞台。残念ながら覚えていませんが、私も4歳で初舞台を踏んでいます。
寺社の催しが減った半面、京都では行政などの後押しもあって京都薪能など新たな伝統芸能に親しめる機会も定着してきました。京都に住んでいると、狂言が神社などで演じられるのも当たり前のように感じてきましたが、実は東京など他都市では寺社で奉納行事が演じられることは、あまりないらしいのです。能楽は武士が楽しむもの、とした江戸と京の風習の違いもあれば、伝統芸能の基が関西の言葉であることなど、いくつかの理由が挙げられます。それであれば、これまでの伝統を踏まえて京都からもっともっと伝統芸能を発信していく必要があるでしょう。
狂言の場合、基礎知識を持たない子どもたちでも笑ってくれます。笑いは国境を越え、言葉と文化の壁を乗り越えて外国人にも浸透していきます。
60年以上前、敗戦直後に京都に留学してこられたドナルド・キーンさんは、茂山家で稽古に励み、京都の伝統を深いところまで研究されました。子ども心にも、狂言を稽古されているキーンさんとの楽しい思い出が心に残っています。近年ではチェコのカレル大学の学生たちが、ロシア経由で学んだ狂言を古いチェコ語を使い、狂言調子で演じています。ちょっとしたきっかけで始まった交流ですが、2016年は京都―プラハの姉妹都市20年の節目に当たります。狂言を通じ、伝統芸能にあふれた京都ならではの交流ができないだろうか、と考えています。
茂山家では父・千作らが時代時代に応じ、他の芸術からさまざまな要素を取り入れた新しい狂言を作り出してきました。実際、同じ作品でも、演技などに取り入れてます。伝統を守ることは、新しい境地を加味していくことでもあるのです。

茂山七五三

藍のグラデーション
心の中の聖なるものへの思い

志村洋子
染織作家
志村洋子

◉しむら・ようこ
1949年、東京生まれ。「藍建て」に強く心を引かれ、30代から母、志村ふくみと同じ染織の世界に入る。89年に、宗教、芸術、教育など文化の全体像を織物を通して総合的に学ぶ場として「都機工房(つきこうぼう)」を創設。2013年に芸術学校「アルスシムラ岡崎校」、15年に「アルスシムラ嵯峨校」を開校。作品集に『志村洋子 染と織の意匠 オペラ』などがある。

日本人が失った色彩は、藍のグラデーションです。ひと昔前、あちこちにあった染め屋さんは現在、化学染料に取って代わられました。作務衣(さむえ)や絣の着物の紺色ではなく、深い紺色~薄い水色~白色まで。藍から転じた色彩の変化を見ると、神聖な気持ちになります。藍を失ったことは、ほんとうにもったいないことです。
藍の葉を染めのできる状態にすることを「藍を建てる」と表現します。徳島県から送っていただいた藍を甕(かめ)に入れて木灰(あく)を入れ、酒やフスマを加えて発酵を待ちます。これがとても難しい。苦労して何度も失敗して、藍を建てるのです。
外国でも、藍はジーンズの染めなどに用いられますが、神聖な気持ちで藍を扱うのは日本ぐらいではないでしょうか。正倉院には、藍染めの絹紐を巻き束ねて作った「縹縷(はなだのる)」が所蔵されています。日本では少なくとも、奈良時代から藍の歴史は続いているのです。
交流のある作家・渡辺京二さんの評論『逝きし世の面影』に、印象的な場面があります。幕末に訪日した外国人が初めて対面したのは、小舟で外国船に近づいてきた人たち。藍色のはちまき、半纏(はんてん)姿があまりにも美しく、感動したというのです。
藍を多用していた当時の日本では道もきれいで、まち全体が清潔だったといいます。心と色は密接に関係しているからでしょう。戦後、日本人が藍を中心とする色彩を失った根本原因は、心の中の聖なるものへの思いをなくしてしまったからだと思います。若い人たちが黒いスーツばかり好んで着ているとしたら、もったいないことです。
新月を選び、私は藍を仕込んできました。月の作用は、色彩に影響を与えると考えているからです。12、13日たち、藍は満月にいちばんきれいな発色の時期を迎えます。
「色を忘れた」ということは「私たちがお月さまを忘れた」ということでもあります。お正月を新春と表現するのも、太陰暦では現在の2月に正月を迎えていたから。梅も咲く時期なら確かに新春と言えるでしょう。太陽だけでは、リズムがおかしくなってしまいます。
藍を建てることは、自然界の原理に近いところに触れるような作業の連続です。二度と同じ色を作れないところなども、この仕事の面白いところでしょう。東京ではなく、周囲に自然のある京都だからこそできる仕事だと感じています。

志村洋子

守るべきものと革新すべきもの
伝統産業の知恵の継承を

下出祐太郎
京蒔絵師
京都産業大学
文化学部京都文化学科教授
下出祐太郎

◉しもで・ゆうたろう
1955年、京都市生まれ。下出蒔絵司所三代目。詩人・学術博士・伝統工芸士。京都府仏具協同組合。即位礼や大嘗祭の神祇調度蒔絵、伊勢神宮式年遷宮御神宝蒔絵、京都迎賓館の飾り台などを手がける。京都市芸術新人賞等受賞多数。第14~37回日展連続入選。以後、フリーで活動。後継者育成に力を注ぐ一方、講演執筆活動を行う。

日本のものづくりの基礎を支えてきた伝統産業が存続の危機に瀕(ひん)している。
さまざまな業種があるが、いずれも同じような状況下にある。伝統的工芸品産業振興協会のデータによると、京漆器の従事者数は、業界の売上高がピークの1991年度と比較すると、2009年度はなんと84・6%減、実に1割近くにまで激減している。2010年度以降のデータは公表されていない。後継者問題がよく取り沙汰されるが、実は手仕事に就きたい若者は結構いる。例えば南丹市にある京都伝統工芸大学校に学ぶ学生は多い。だが、いかんせん弟子を受け入れる工房が極端に少ない。要は需要がないのだ。
蒔絵(まきえ)の主たる原材料は、漆と金粉である。蒔絵金粉を製造する会社は全国で東京と金沢の2社しかない。需要が減ってくると材料も道具も作ってくれる人がいなくなる。材料にも道具にも熟練した技能が必要であり、私たちの伝統産業には一人勝ちはありえず、日本らしい共存共栄が信条だ。
その2社によると、私の工房が全国の蒔絵工房の中で弟子の数がトップクラスという。2桁に満たない人数なのに。京都や輪島をはじめ漆器産地が多い中、伝統的な手仕事である蒔絵は、シルクスクリーン印刷などに取って代わられ、筆で描く蒔絵は激減の一途だ。かつて小文字のjapanが蒔絵漆器を表すほど日本の工芸を代表したものであったのだが。
なぜ私の工房が元気なのか。それはひとえに私の未来展望にある。いわばカラ元気だ。現状は厳しい。伝統産業は昔の先端産業だったという。守るべきものと革新すべきもの。現代の手仕事における先端とは何であるのか。
学術的には過去の逸品や重要文化財の先端分析機器を活用した材料や制作法の解明であったり、制作的には新素材の活用であったりするのではないか。文化財の保存修理に広がり、現代の作品制作に生かせる可能性を見ることができる。日進月歩の複合素材など具体的には金属成形合板や、京セラの京都オパールの粉末を視野に入れている。昨年9月には、尾池工業との共同研究の結果、漆の発信をもくろんだ漆の光沢を持ったフィルム開発に特許が下りた。
大変名誉なお話をいただいた。外務省からの依頼で間もなくヨーロッパの3国に講演旅行に出かける。クールジャパン、日本の知恵としての漆文化を紹介するためだ。
京都が1200年培ってきた伝統産業、ものづくりのオリジナルの知恵はきっと日本の宝だ。絶やしてはならないと考えている。伝統産業の知恵の継承を全産業に向かって呼びかけたい。

下出祐太郎