日本人の忘れもの 知恵会議  ~未来を拓く京都の集い~

一つの家族、一つの集落に伝わる
記憶の中にある味わい

熊倉功夫
静岡文化芸術大学 学長
和食文化国民会議 会長
熊倉功夫

◉くまくら・いさお
1943年、東京生まれ。東京教育大卒業。文学博士。筑波大教授、国立民族学博物館教授、林原美術館館長などを歴任。現在、静岡文化芸術大学長。一般社団法人和食文化国民会議会長。著書に『日本料理の歴史』『茶の湯といけばなの歴史 日本の生活文化』『文化としてのマナー』『茶の湯日和 うんちくに遊ぶ』『日本人のこころの言葉 千利休』など。

母の形見のような食べものの一品がわが家の正月料理の中にある。
私の母は大正元年の生まれで、明治45年生まれといわれるとひどく機嫌が悪かった。明治は因習の時代と嫌い、大正のモダンが好きな、近代を絵にかいたような女性であったから古めかしい親戚付き合いも、家の年中行事も大嫌いで、およそ伝統文化など興味を持つことはなかった。
そんな母だったが、今思うと結構古風であったと思う。その母が必ずおせち料理の一品として作った豆腐料理がある。ほかでは見ないし、母がどこで誰に教えられたものか聞いてもみなかった。名もないので、わが家では「黄金豆腐」と勝手に名をつけた。
寒天に薄甘の程度の砂糖を加えてよく溶かし、その中に豆腐を手でくずして落とし、火を通す。火を止めてから卵を溶いて入れ余熱で卵が固まったら、あとは冷やすだけ。これを羊羹(ようかん)のように切って盛ると、寒天の中に白い豆腐と卵の黄色が散ってなかなか美しい。子どものころから食べてきたので、これがないと私にはおせち料理といえないのだが、息子や娘はほとんど手を出さない。家内も私にいわれて仕様もなく作ってきたが、近年は一緒に食べてくれる。姉の家でも作るが、私の覚えている味と違うので、本当のところ母の味がどんなものであったのか、よく分からないというのが正直なところである。
私の代で消えてしまうのはもったいないと、娘には伝えたいし、娘も最近は食べるようになったので、母の忘れ形見の料理はもう一世代は続けたいと思う。
近代の日本は、あまりにも変わり身が早く、あっさりと古いものを捨ててきた。うっかり捨てたのではなくて、私の母のように意識的に「因習」として捨てたのだから、悔やんでも仕方がない。捨てたものを復活するのはできない相談である。
ところが捨てたつもりでいた中に、忘れ形見のように残っているものが、個人や家族の記憶の中にあったりする。誰もが共有するような立派なものではないけれど、一つの家族とか、一つの集落にしか伝わらない味わいなどその典型であろう。
今、私は和食文化の保護・継承の運動に携わっているが、和食という大きな枠も大切だが一人一人のひだの間に隠れてしまいそうな味わいの集合こそ和食文化ではないかと考えている。

熊倉功夫

「おめでとう」、姿勢正してあいさつ
家族で集うお正月を大切にしたい

桑原櫻子
桑原専慶流副家元
桑原櫻子

◉くわはら・さくらこ
1960年、京都市生まれ。幼少から祖父・先々代家元のもとでいけばなを学ぶ。81年、同流副家元を襲名。季節の色彩を重視したいけばなを多くの花展に発表するほか、ドイツをはじめ海外でのいけばな展や交流会にも積極的に参加。もてなしの心を大切にした料理サロンも主宰。著書に『新感覚の簡単京風おかず』。

私の家は一年中何かと忙しく、人の出入りも多く慌ただしく過ぎていきますので、お正月は家族や親しいお弟子さんたちとゆっくり過ごすのが日課になっています。
12月の仕事納めが済むと、皆で掃除を済ませてから、私はおせち料理の買い出しに。ついこの間までは父と一緒に作っていたおせち料理。父は一の重と二の重を中心に、私は主にお煮しめやお雑煮を担当していました。私一人で作るようになって、今年でもう4年になります。高校生の頃から手伝っていたので、長く2人でできたことに感謝です。夫や妹に味見してもらって、「これでええかな?」と確かめ合いながら、またこれで家の味ができていくのだと思います。
お膳や器を蔵から出して準備するのは夫やおいっ子たちが協力して整えてくれます。新年を祝うお膳は家紋の笹(ようかん)りんどうが描かれている漆器です。それぞれに家族の名前が入っていて、男性は朱塗りの膳に、女性は黒塗りで脚の高い膳になります。おいっ子たちはこのお膳でおせち料理をいただくのをとても楽しみにしています。
元旦は大福茶とおとそをいただき、「おめでとう、今年もどうぞよろしく」と姿勢を正してあいさつすることも、とても大切なことと思っています。
お正月の床飾りやお玄関のお花は、若松のお生花や椿(つばき)や水仙をいけます。静かですがすがしい空気で気持ちが引き締まります。
旅先で迎えた新年も、何度もあります。なにもしなくて良い気楽さはありますが、何か物足りないわびしさを感じてしまいます。どんなに素晴らしいホテルや旅館に泊まっても、元日の朝に供されるお食事には満足できないのです。不出来であっても長い間作り続けてきた家の味とは違うからです。そんなことを言っていたら、いつまでたっても楽できませんよと言われそうですが。おいしいものを作りたいと思う気持ちには、家族がいつも健康で良い仕事ができるようにとの願いが込められています。そんな思いがいっぱい詰まったおせち料理を、大切に作り続けていこうと思っています。お座敷でのお祝い膳が済むと、ほろ酔いで隣のこたつの部屋で、お茶菓子をいただきながらだんらんします。
暖かな食卓の上には陽気でかわいらしいガーベラの花がいけてあって、ほっと人心地。みかんをいただき、年賀状を見たりトランプをして家族で集うのも大切なわが家のお正月です。

桑原櫻子

近距離コミュニケーションこそ
「ヒト」を人たらしめている要因

小原克博
同志社大学 良心学研究センター長
小原 克博

◉こはら・かつひろ
1965年、大阪市生まれ。同志社大大学院神学研究科博士課程修了。博士(神学)。一神教学際研究センター長(2010-15年)、京都・宗教系大学院連合議長(13-15年)などを歴任。現在、同志社大神学部教授、良心学研究センター長。専門はキリスト教思想、宗教倫理学、一神教研究。『宗教のポリティクス─日本社会と一神教世界の邂逅』ほか著書多数。

私は電車で通勤しているが、この数年、駅や電車の中の風景は大きく変わったと思う。かつて、ゲーム機やスマホなどに夢中になることは若者の専売特許のようなものであった。ところが、今や老若男女を問わず、画面をのぞき込み、忙しく指先を動かしている。それぞれが非常に近くに座り、あるいは立っているのだが、相互の関心は皆無といってよい。先日、優先座席に座りながらスマホに夢中になっている複数の若者の前に、お年寄りと赤ちゃんを抱えた女性が立っている場面に出くわしたが、その存在は彼らの視界には入っていないかのようであった。
こうした状況に苦言を呈したいわけではない。これも氷山の一角と諦める前に、われわれがどのような時代の中で生きているのかを、時々立ち止まって考えることは大切だろう。社会の近代化の中で「より遠くへ、より速く」という価値観が尊ばれ、交通網だけではなく、通信技術が目覚ましく発展し、世界は小さくなっていった。遠距離コミュニケーションの革新の恩恵は計り知れない。
しかし、「ヒト」が他者と向き合って、その顔の表情を読み取り、感情を共有し、必要な手助けをするように進化してきた歴史は、数百年どころの話ではない。長い進化のプロセスの中で獲得してきた近距離コミュニケーションこそ、ヒトを人たらしめている要因であるといってもよい。人間のように、顔の表情一つで微細な感情を分かち合うことのできる動物は他に存在しない。
日本では、人と人の間の繊細な感情のやりとりを土台にして、人と動物や自然との間のつながりの意識も繊細な形で育まれてきた。自然の事物の中にも表情を読み取ろうとする感覚は、日常的な近距離コミュニケーションがあってこそ成立するものだろう。あるいはインターネットでもかなわない、先祖との交流といった遠距離コミュニケーションも、やはり家族の親密な交わりの中に基礎付けられてきた。
急速な変化の中で、人の顔を見ないで済む遠距離コミュニケーションだけが一方的に拡大すると、どうなるのだろうか。たとえば、遠隔操作によって人を殺害することのできるドローンは、この時代の副産物であるだけでなく、それは私たちのもう一つの顔でもある。
人の顔に表れる不安や喜びを受け止めることのできる共感の能力、電子ネットワークのただ中にありながら、大地や自然の息づかいを感じることできる身体性。新年にあたって確認すべき事柄は身近にある。

小原 克博

妖怪は歴史、文学、美術、芸能を横断
日本文化の特質「カワイイ」を表現

小松和彦
国際日本文化研究センター所長
小松和彦

◉こまつ・かずひこ
1947年、東京都生まれ。専門は、民俗学・文化人類学。東京都立大大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。信州大助教授、大阪大文学部助教授および教授を経て、97年より国際日本文化研究センター教授。その後2010年より同センター副所長を兼務、12年4月より現職。13年紫綬褒章受章。

日本の妖怪や怪異・異界をめぐる文化を研究し始めて、もう40年以上になる。幸い、このことが国内ばかりでなく、海外の日本研究者たちにも認められるようになり、妖怪文化研究は世界的な広がりを持つようになってきた。
もっとも、それを研究するのは容易ではない。というのも、妖怪は歴史、文学、美術、芸能、日常生活など、日本文化のさまざまな局面に登場するからだ。しかも、妖怪文化は過去にとどまるものではなく、最近の「妖怪ウォッチ」ブームなどが示すように、現在の文化と密接につながっていて、刻々と変化する生々しい文化でもある。
しかしながら、だからこそ、妖怪文化研究はおもしろい。たこつぼ化した学問からは決してうかがうことができない日本文化が浮かび上がってくるからである。
近年、国際的な規模での妖怪・異界をめぐる研究集会が次々に行われるようになった。昨年も、天理大学では「妖怪・怪獣の誕生」、学習院女子大学では「東の妖怪、西のモンスター」、フランスのストラスブール大学では「日本のファンタジーの系譜」と銘打った国際的な研究集会などが開催された。これらの研究集会でいつも議論になるのは、日本の妖怪の「かわいらしさ」である。「異形」「グロテスク」「珍奇」といった形容詞をつけたくなる幻想上の生き物の多くを、日本人は「かわいい」と思う。それが不思議だ、という点である。はてはそこに、日本人の心性を解く鍵があるのでは、とまで思われているらしい。
そうした議論の中で、とくに興味深く思ったのは、日本の妖怪は、その歴史の当初は、西欧のモンスターのように、巨大かつ破壊的な性格をもったヤマタノオロチや酒呑(しゅてん)童子のような鬼が主流を占めていた。だが、やがてゴジラやガメラに至る「怪獣系」の妖怪と「カワイイ系」の妖怪に分岐し、後者は、人間と等身大か、人間より小さな存在に変化した、という意見であった。確かに人気のある「つくも神」(道具の妖怪)は小さい。
日本人が「縮小」を好むということを『「縮み」志向の日本人』という著書で指摘したのは、韓国の李御寧氏だが、日本の妖怪の特徴にもそれが現れているらしいのだ。日本人は、恐ろしい妖怪も小さくすることで愛玩の対象に変えていったのかもしれない。
手元の小さな般若面の細工がついたストラップを眺めながら、日本文化の特質がこの中にも宿っているのかと思うと、不思議な気持ちになってくる。

小松和彦