日本人の忘れもの 知恵会議  ~未来を拓く京都の集い~

先人の愛した文化や道具を
見直していきたい

森田りえ子
日本画家
森田りえ子

◉もりた・りえこ
1955年、神戸市生まれ。80年、京都市立芸術大大学院を修了。86年、第1回川端龍子大賞展大賞を受賞後、京都市芸術新人賞、京都府文化功労賞など数多くの賞を受賞。京都の伝統文化を受け継ぐ舞妓などを、卓越した描写力で表現。2013年、京都市立芸術大客員教授に就任。

先日、ブータン王国に滞在する機会があった。あの幸せ度世界一のブータン王国だ。国内では道路は未舗装で、交通手段がほとんどないが、突き抜けるような青空のもと、国王と王妃様が来日された際に身に着けておられた民族衣装(男性はゴ、女性はキラ)を着た老若男女は、急な坂道をすたすたと歩いていた。みんな元気にたくましく、そして楽しそうに…。
女性は長いスカートなので見えないが、男性は膝丈のゴに黒いハイソックスを履いていた。彼らの足はカモシカのように引き締まり、もちろん太った人は見当たらない。高校見学では、校庭に整然と並んだ生徒たちが真剣に民族舞踊を練習したり、道徳や仏教の授業に取り組んでいた。彼らのきらきらとした瞳が印象的だった。また、ふと見上げた夜空の降るような星のきらめきに、時空を超えて幼い頃に戻ったような不思議な懐かしさを感じた。
日本でも明治以前はこんな生活だったと思うが、モノに溢れた現代の日本に生きる私には新鮮な経験であった。
話は変わるが、最近知人の奥様から貴重な道具を頂いた。昔は「火なしコンロ」と呼ばれたらしいが、手作りの綿入りの大きなポットカバーと下に敷く布団のセットである。幸いにも手持ちの土鍋にぴったりのサイズだった。これが実に優れもので、土鍋に材料を投入後、沸騰するまで火にかけ、布団に載せカバーをかけるだけで一晩中じっくりと煮込み保温できる。カレー、おでん、シチューなど何でもOK。そしてとてもおいしくでき、その名の通り火の心配や焦げ付きなどの失敗がない。なんて働きものの布団だと感激。すっかりはまってしまい、連日わが家では大活躍している。戦前は各家庭で利用されていたそうだが、私にとってはこれも新しい驚きだった。まさに省エネ、時短の便利グッズである。
このような昔の人々が利用し、今では忘れ去られた道具がまだまだあるはずだ。まずこの「火なしコンロ」を第一歩として、今後他のものも追及していこうと思っている。そろばんから電卓に、手紙からメールに、アナログからデジタルに、今やIT産業一色の時代、先人の愛した文化や道具を見直していきたいとの思いが私の中で芽生えている。

森田りえ子

異分野の人々が交流を深め、
高齢者の恩恵を次世代に譲ろう

山折哲雄
宗教学者
山折哲雄

◉やまおり・てつお
1931年、米国生まれ。岩手県出身。東北大大学院文化研究科博士課程終了。「宗教と現代社会」を終生のテーマとし、幅広いジャンルにわたり作品を発表。国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター所長などを歴任。専攻は宗教学・思想史。『愛欲の精神史』で和辻哲郎文化賞を受賞。著書は『近代日本人の宗教意識』(岩波書店)など多数。

知恵比べというのは頭の片隅にありましたけれども、「知恵会議」とは聞きなれぬ発想ですね。日本人の忘れものを再発見するために知恵を出し合おう、その知恵を実践に移していこう、そのための会議だと受け取りました。単に知恵を比べるのではない、ーそういうところがまことに新鮮であり、気に入りました。その文殊の知恵を生み出すために、いったい何が必要だろうかと考えてみました。
さしあたり二つくらいのことが念頭に浮かびあがってきましたので、それを申し上げたいと思います。一つは、いろんな垣根を取り払い広い場所を切り開いてものを考え、異分野の方々同士で交流を深めることではないでしょうか。専門から入ってそこを脱けでるということが肝心で、できるだけ自然体で語り合うことではないかと漠然と考えております。
二つ目に頭に浮かんだのは、高齢者世代がこれからの若い世代に対して、いったい何をすることができるのか、何を残すことができるのか、そのような問題をこの会議の主要テーマにすることができればいいな、という思いであります。今日、私を含めた高齢者世代が国や自治体の財政から多大な恩恵を受けていることはご承知の通りであります。そのこと自体は大変ありがたいことなのですが、もうそろそろその恩恵の多くの部分をこれからの世代に譲っていかなければならない時代に入っていると思うのであります。わかりやすく申しますと、高齢者世代が手にしている権威や権限、既得権を、できるだけすみやかに若い世代に譲っていくシステムを作っていくということではないでしょうか。
わが国の伝統には、古くから老人世代を大切にし尊重する「翁(おきな)」の思想や文化が根付いていました。しかし同時に、たいへん興味あることなのですが、老人は子どもたちのための肥やしになってその成長を下支え、助けるという文化も豊富に生み出してきました。そして、ここのところがもしかすると今日の高齢化社会の日本人が、見て見ぬふりをしている、最も大切な「忘れもの」ではないかと思っているのであります。
そのような状況をどのように転換していったらいいのか。今度の知恵会議が、言ってみれば次世代への欲望の贈与、子ども世代への欲望の譲渡ということを、どう現実のものとするか、といった方向で知恵を絞ることができれば、とてもいいなと考えている次第であります。

山折哲雄

他者への思いやりは
円滑な社会を営む根幹

山本兼一
作 家
山本兼一

◉やまもと・けんいち
1956年、京都市生まれ。同志社大文学部美学及芸術学専攻卒業。出版社勤務の後、フリーライターを経て作家に転身。長編デビュー作は2002年の『白鷹伝』、04年に『火天の城』で松本清張賞、09年には『利休にたずねよ』で直木賞受賞。

『利休にたずねよ』という小説を書くためにお茶の稽古会に通っていた。大徳寺の塔頭(たっちゅう)瑞峯院での会である。怠け者の生徒で、ほんの少しお茶の世界を垣間見せていただいただけで、今はもう失礼させていただいている。
稽古に通っているときは、お正月の初釜にも出させてもらった。
床に梅が生けてあった。枝の先の一輪だけが、ちょうど具合よく咲いていた。
「うまく咲いた枝をよくお見つけになられましたね」
お茶の先生に話しかけると、淡く笑ってうなずかれた。
「年末のうちに一枝切っておいて、部屋で温度調節しましてね、一輪だけ咲かせたのですよ」
先生がご自宅の庭の梅の枝を切ったのは初釜の3週間前。それを花瓶にさし、毎日蕾(つぼみ)の具合を観察し、日なたの縁側に置いたり、寒い日陰に置いたりして温度を調整し、1月半ばの初釜のその日にぴたりと咲かせたのだとおっしゃった。偶然の美だと思っていたのだが、それは人の丹精がなした技だった。
稽古会にほんの2、3年通わせていただいただけの私には、お茶のこころを語る資格などない。それでも、このエピソードでお分かりいただけるように、お茶をなさる方は、お客さまをお迎えするにあたって、見えない陰の部分で大変な努力をなさっているのだと知った。それは、そのまま私たちが普段の暮らしのなかで忘れていることである。
「おもてなし」という言葉は大流行してしまったので素直には使いにくいが、その底にはお客さまへの思いやりのこころがなくてはなるまい。
そして、客の側にも、迎えてくれる亭主を思いやるこころがなければならない。一輪だけちょうど咲いている梅の枝がなぜ、そこにあるのか。偶然、そんな風に咲いた枝をわざわざ見つけてきたのか……。
どんな背景があったか想像が及ばないにしても、そこにはお客に楽しんでもらおうという思いやりのこころがはたらいているはずである。
思いやりは、人間が円滑な社会を営むための根幹である。他人のこころを思いやることができなければ、そもそものコミュニケーションからして滑らかには進まない。

山本兼一

伝統の新年の行事を思い出し
物語を伝えていきたい

冷泉貴実子
冷泉家時雨亭文庫常務理事
冷泉貴実子

◉れいぜい・きみこ
藤原俊成・定家父子を祖とする冷泉家の24代為任氏の長女として生まれる。25代為人氏夫人。平安時代から続く冷泉家の建築および古文書などの文化財を将来にわたり総合的かつ恒久的に継承保存していくことを目的に設立された、冷泉家時雨亭文庫にて常務理事を務める。同事務局長。冷泉流歌道を指導している。

旧暦の正月は、立春前後、すなわち1月下旬から2月の上旬の頃だった。今年は1月31日が旧暦の1月1日に当たる。その頃になると朝が少し早く明け、陽(ひ)が落ちるのが少し遅くなる。まさに春の訪れだ。
子丑寅卯(ねうしとらう)の十二支がすべての基準であった頃、一番初めの子(ね)はめでたきものだった。
立春から後の最初の子(ね)の日、春の光に誘われて、人々は野山に出かける。京の周辺はまだ枯木(かれき)ばかり。昔の人は枯木に死を連想し、美を感じなかった。その中にときわの緑の葉を持つ松を見たとき、これこそ神が宿っていると感じた。
特に、若松には生命の喜びを見たのだろう。その若松を根のまま掘り起こし、家に持ち帰り門松とした。子(ね)の日の根引き松という。現在でもわが家では、根引き松の門松を使う。また初釜の薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)に若松の焼印が押されている所以(ゆえん)でもある。
樹木は枯木ばかりだけれど、野には緑が萌(も)え始める。早春に、京の周辺の野に花はない。そもそも野の花というとき、現在私たちはスイトピーやチューリップなど春の花を思うが、それはすべて外来種。日本では、野の花と言うとき、ススキや萩など秋の花を指すのが本来であった。
春の野は、花に代わって緑の菜、野菜である。セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ、春の七草。ビニールハウスでの野菜栽培などなかった昔、初春にわずかに萌え出した緑の菜を摘むのは、喜びだったに相違ない。
これを新春、初めて食べるのが七草粥(がゆ)である。今では、お節を食べ飽きた身体に、ヘルシーな七草粥をなんて言うが、かつては萌え出した緑が、何にも代えることのできないご馳走(ちそう)だったのだ。
現代私たちは、年々正月行事から遠ざかっていくように思う。代わってイルミネーションのクリスマスばかりが盛大になっている。もう一度、長い伝統の新年の行事を思い出そう。かと言って、現実に山に若松を採りに行くのも不可能だし、皆がそこら一帯の山菜を漁(あさ)るのも問題である。でも、物語を伝えることはできるのではないかと思う。若松のお菓子を見たら、子(ね)の日の遊びのことを話せるのが、日本人の教養というものである。

冷泉貴実子