日本人の忘れもの 知恵会議  ~未来を拓く京都の集い~

「我慢」のあとに来る
満ち足りた解放感大切にしたい

広上淳一
京都市交響楽団常任指揮者
広上淳一

◉ひろかみ・じゅんいち
1958年、東京都生まれ。東京音楽大卒。東京音楽大教授。京都市立芸術大客員教授。84年第1回キリル・コンドラシン国際青年指揮者コンクールで優勝。ノールショピング交響楽団やリンブルク交響楽団の各首席指揮者、日本フィルハーモニー交響楽団正指揮者、コロンバス交響楽団音楽監督を歴任。2008年4月からは京都市交響楽団常任指揮者を務める。

電話を掛ける。番号を押す一音一音が電話の相手への距離を近づける足音。その足音が止まると耳元にはトゥルルルと扉をノックする呼び出し音が聞こえる。1コール、2コール、不安を感じ始めたとき、電話の向こうの扉が開き、待ち侘(わ)びた声が耳元に飛び込む。そして頭の中は、電話の相手の笑顔だけが広がる。呼び出し音が作るくすぐったい緊張の時間。声が耳に届いた瞬間に訪れる解放感。人々はこの緊張から解放までの「我慢に満ちた時間」に、「想像すること」を覚えるのです。
楽譜の指示以上に音を「溜める」「伸ばす」。そこにはその瞬間の感情が込められています。ライブには、溜めて伸びる音の束が作る空間のゆがみが生まれ、感情の起伏を作り出します。「溜める」「伸ばす」、この「じれったい」とさえ感じる「我慢に満ちた」時間を、日進月歩進むリアル現代の中、人々は見失い想像を忘れ殺伐とするのです。
携帯電話、メール、そしてソーシャルネットワークといわれるものの数々。どこにいても、リアルに探し追いかけられる時代。私たちは、いま何色にも染まらない時間「我慢に満ちた想像の時間」をどれだけ持つことができるのでしょう。楽譜の上の音符と音符の間にある空白。私たちは毎日どれだけ長い空白の時間を持たせてもらえているのでしょう。この空白の時間こそが、次にくる「ときめき」への助走で、束縛されているように思う「我慢」こそ、とても自由で期待感高めることができる「至福の時間」だと思えてならないのですが。
スピード感が問われる時代は、人々の「我慢に満ちた想像の時間」を無駄だといわんばかりに奪い続けます。そして、その結果我慢できない人々を作り出し、思い通りにならない出来事に遭遇すると、その融通の利かぬ物を壊し、思いのままにならない人を傷つけてしまう。「我慢」という名の「次への想像に続く空白の時間」の存在を教わっていない人々は、自分色に染まらない時間に戸惑い、不安と不満で狂気と化してしまうのです。「何もない」時間。実は「何もないから想像できる」時間を、この俊足の世の中は忘れ去ってしまおうとしているのです。
無機質に「時」を進め「間」をなくした世の中に、私は逆らうように緩やかで分厚く、そして時には「無音」を伴う音楽を届けたいと願っています。音楽で操られた時間が作る、じれったさの後に満ち足りた解放感。音楽は、殺伐とした時間を潜り抜ける指針になりえると信じて。

広上淳一

家庭教育という聖域を死守し
未来を担う子どもたちを守って

深見 茂
祇園祭山鉾連合会顧問
深見 茂

◉ふかみ・しげる
1934年、京都市生まれ。大阪大文学研究科修士課程修了。専門はドイツ文学。96年に祇園祭山鉾連合会理事長に就任。以来、5期15年にわたって理事長を務めた。この間、祇園祭の文化的な地位の向上に尽力し、2009年9月にユネスコ無形文化遺産の登録を実現。大阪市大、滋賀県立大各名誉教授。祇園祭山鉾連合会顧問。

新年にあたり、将来の展望を占うとは、どのような歴史観をもって望むかということだろう。
そこで歴史観とは何かとなるのだが、一般には時間の流れをいかに解釈するか、の問題であるとされる。すなわち、(1)時間は永劫(えいごう)回帰する、というギリシャ的歴史観 (2)時間は救済という一点を目指して無限上昇を続ける、というユダヤ的歴史観 (3)時間は意味なく流れ続ける、という虚無主義など。 (1)は反復を本質とするから、将来は過去に学べば分かるとされ、 (2)は将来いつ、どのようにしてその一点、すなわち終末は到来するのか、という人間の思弁、つまり歴史哲学を生むとされ、 (3)は展望なき将来、つまりデカダンスを生むとされる。
さて、戦後日本人はどのような歴史観を抱いて生きてきたか。私見だが、(1)と(2)の楽天的混淆体(こんこうたい)のような形の将来を展望してきたのではなかったか。つまり、「過去に学びつつ、いつの日か絶対自由の理想社会の完成」という終末を夢見て来たのではなかろうか。だが、21世紀の日本は、「過去を教訓とせず、いつの日か絶対不自由の暗黒社会の実現」という悲観的道をたどっているように思えてならない。京都新聞の年配読者たちも、しきりにそれを憂いている。「中学生の時(中略)教師の言った言葉(中略)『こんな憲法を持っていても、そのうちに戦争するようになりますよ。人間なんてアホやから』」(73歳男性。2013年11月15日付)、「私は(中略)『世が世ならば』とか『戦前なら不敬罪だ』とか言っていた国会議員に立腹(中略)。これらの議員諸氏は戦中戦後の経験があるのでしょうか。私は戦中派です。(中略)そんな時代の庶民の苦労ひとつ知らないで、簡単に『世が世なら』という言葉を使って欲しくありません」(74歳女性。2013年11月16日付)。
このような時代、必要なのは何であろう。革命か。否。かつてドイツのシラーという詩人は理想社会実現のための政治革命など無意味であると、18世紀末のあの流血革命全盛期において既に喝破し、いつの日か神の恩寵(おんちょう)によって到来するであろう理想社会を受け入れるにふさわしい人間の美的・道徳的教育の中に、人類の将来を賭けた。ただし、日本では学校教育など聖域ではないことを戦中派は痛感している。残る望みは、もはや家庭教育しかない。誠に迂遠な方法だが、どうか若い世代の方々が家庭教育という聖域を死守して、日本の未来を担う子どもたちを守っていただきたいと願うばかりである。

深見 茂

「ご飯、汁物、香の物」見直すことが
日本の精神と伝統文化を支える

伏木 亨
京都大学大学院農学研究科教授
伏木 亨

◉ふしき・とおる
1953年、京都府生まれ。75年、京都大農学部卒業、同大農学研究科教授。日本料理アカデミー理事。食品・栄養を中心として、おいしさの脳科学、自律神経と食品・香辛料の生理機能など、幅広い研究を行っている。2008年日本栄養食糧学会賞、12年日本農芸化学会賞受賞。著書に『味覚と嗜好』など多数。

「和食 日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録された。
「素直にうれしいけれど、でも、和食って具体的には何?」 そんな声もちまたに溢れている。
もちろん料亭の懐石料理だけが和食ではない。和食の骨格とも言うべき必須の要素は「ごはん、汁物、香の物」であろう。明治以降、海外からおびただしい種類の食材や料理が入ってきた。日本の食卓は、新しいもの好きだが頑固でもある。これら舶来ものをことごとく和風にアレンジしてきた。「ご飯、汁物、香の物」の骨格さえ整えばおかずは和風でなくとも立派な和食だと私は思う。和食の実践は困難ではない。今まで通りの食でよい。しかし、米や味噌や漬け物の消費量はこの4、50年ほどでいずれも半減している。和食の骨格が忘れ去られようとしているのではないか。
和食は日本の精神を体現している。日本人にとっては、人間も食材もともに自然の一部であり、自然との一体感は強い。食べることは、自然の一部をいただいているものだ。だから、和食は自然を損なわずに、素材を生かすことを選んできた。純粋なうま味が得られる和食のだしが、食材を生かすための脇役として仕事をしてきた。一方、欧米の料理人は、一生かけて自分のソースを創り上げたいと願っているという。自然の食材を独自のソースで征服したい。自然に対する視点の違いが料理に現れている。
日本のようなアジアモンスーン地域の農業にとって、自然は征服するには手強すぎると農業に詳しい友人は言う。豊かな水や陽光をもたらす自然も、しばしば大水、日照り、嵐や寒波などが、御しがたく牙をむく。自然は恐ろしい。源実朝の「時によりすぐれば民の嘆きなり 八大龍王雨やめ給へ」(金槐集(きんかいしゅう))にあるように、日本では、征服ではなく自然への畏敬が育まれてきた。
和食の要素である「ご飯、汁物、香の物」を見直すことが、日本の精神と伝統文化を支えることに繋(つな)がる。和食が生きれば、だしや味噌(みそ)や醤油(しょうゆ)はもとより、日本酒も息を吹き返す。みりんも、納豆も元気になる。炭も塗りも陶器も畳も障子も、日本家屋さえも和食と無縁ではない。あちこちで、貴重な伝統が新芽を吹く。
海外の料理人も、自然を敬う日本の料理の精神に注目しはじめている。未来は、大変身を遂げなければ生き抜けないものでもなさそうだ。むしろ、自国の文化を信じて、今まで通りを地道に繰り返すひたむきさにも、未来は光を当てているように思う。

伏木 亨

すべてに宿る大いなる「いのち」
忘れずにいてほしい

森 清範
清水寺貫主
森 清範

◉もり・せいはん
1940年、京都市生まれ。15歳で清水寺貫主大西良慶のもと得度、入寺。花園大学卒業後、真福寺住職などを歴任。88年、清水寺貫主・北法相宗管長に就任。全国清水寺ネットワーク会議代表。著書に『人のこころ 観音の心―命こそ仏さま』『一文字説法 観音のこころ』など多数。

沼津市に本拠を置く静山会という広域異業種交流の親睦団体があります。大変楽しい会で、私が第三代名誉会長をしている関係から、定例会には毎回、法話をさせていただいております。この会に「不即不離(ふそくふり)」という会訓があります。初代名誉会長の中島玄奘老師が掲げましたもので、禅宗で重要視されている禅の三経の一つ、円覚経(えんがくきょう)に出てくる言葉ですが、この言葉にも使われている「即」という字は仏教で大切な字の一つであります。
「即」とは物事を相対的に捉えないということです。正反対に思えるものを二つに分けず、一つとして見ていくことを「即」といいます。般若心経に「色即是空(しきそくぜくう)」とあり、色と空という正反対の意味をもつ二つが一体となるのです。例えば、自動車にアクセルとブレーキがあるのと似ています。異質なものが同時にあるということです。自動車はアクセルとブレーキが相まって進行していきます。
物は豊かになりましたが、心がそれについていかないとよく言われます。物だけでも、また心だけでも駄目です。物心両方が大切です。この二つが「即」で結ばれ「物心一如(ぶっしんいちにょ)」として物事が円滑にいくのです。
皆さんよく耳にする言葉に「仏凡一体(ぶつぼんいったい)」というのがあります。これも「仏」と「凡」とは異質のものです。これが一体とは、私に仏種が宿っていることの自覚です。「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」であります。では、私に宿る仏とは何を指すのでしょうか。それは、いま生きているこの「いのち」そのものです。仏ほど尊く平等なるものはない、また命ほど尊厳なるものもない。
私たちの体は、60兆もの細胞からなり、一瞬たりとも働きを休むことなく、互いに助け合い調和を保ちあっています。遺伝子工学の筑波大学名誉教授・村上和雄先生は「一個の細胞の中には大百科事典3000冊分もの遺伝子暗号が書かれている。生命が生まれる確率は、1億円の宝くじが連続して100万回当たるほどの偶然といった計算もある」と述べられ、それをサムシング・グレートとも申しておられます。私の心臓は私が動かしているわけではない、私ではない大きな力が動かしています。この偉大なるエネルギーこそ仏であります。
この仏に畏敬の真心で手を合わすときこそ「即」で結ばれるときであります。現代は物にばかりとらわれがちですが、すべてに宿る大いなる「いのち」や心を忘れずにいてほしいものです。それが豊かな社会につながります。

森 清範