日本人の忘れもの 知恵会議  ~未来を拓く京都の集い~

過去からのメッセージを
若い人たちに伝えたい

永田 萠
絵本作家・イラストレーター
永田 萠

◉ながた・もえ
1949年、兵庫県生まれ。成安造形大客員教授。カラーインクの透明感のある鮮やかな色彩を生かし、独特の画法で手がけた絵本や画集、エッセーは150冊を超える。87年ボローニャ国際児童図書展グラフィック賞を受賞。京都市中京区に「ギャラリー妖精村」を主宰。

までさほど意識してこなかったのだが、昨年あたりから師にあたる方たちとの別れが続き、同時に新しい命との出会いも多くなり、自分が過去と未来をつなぐ年齢になったのだと考えるようになった。
過去から教えを受けた多くのことを、未来につなげなければならないと思う、と言っても、それはあまりにも広範囲になるのでまずは専門分野からということで、大学では画学生たちに、絵本の近代史に残る戦前戦後の作家たちについて講義をしている。その折、必ずふれるのは時代背景だ。その時代を作家たちがどう生きて描き続けたかを伝えるのは、とても重要だ。二つの大きな戦争のあったこの100年間に多くの名作絵本が生まれ、中には今も読まれ続けている本も多くある。
時代は大きく変わったけれど、作者が絵本に込めたメッセージと読者が絵本に求めるものは変わらない。それは愛だ。人が人を思いやり大切にする、愛にあふれた平和な世界。その大切さを幼い人に知ってほしいと作家たちは物語に絵を添えて絵本にした。そして絵本を手にとった大人たちは、それを子どもたちに読み聞かせてきた。愛や平和を語ることが困難な時代には絵本も抹殺(まっさつ)されかけたが、その志は確かな方法で受けつがれている。
学生たちには自分の言葉と自分の方法で、未来に向けてこの志をつなげてほしいと伝えている。彼らに今すぐできることではないことはよく分かるし、大人が熱を込めて語ることはたいてい、うっとうしく思うものだということも知っている。なぜなら私もかつて同じことを思ったから。それでも「話してもムダかもしれない」と思う気持ちをおさえて言葉にするのは、若い私に多くの師がそうしてくれたからだ。それがどれほど貴重なメッセージだったかが、今ごろになってようやく分かる。ということなら、どんなにうるさがられても、過去からのメッセージに私自身の思いを加えて話すのは義務だと思う。
日本ならではの美意識やよいしきたり。人としての誇りや矜持(きょうじ)。平和な社会や温かい家庭。過去が大切にしてきたものを未来に失うことのないようにと強く願う。そしてそれを守るために戦ってくれた人たちの人生や残した仕事を、絵本史を通じてこれからも伝えていきたい。

永田 萠

「しあわせ」は
相互の働きかけで生まれるもの

中西 進
京都市中央図書館館長
中西 進

◉なかにし・すすむ
1929年、東京都生まれ。東京大ならびに同大学院で日本文学を学ぶ。国際日本文化研究センター教授、京都市立芸術大学学長、日本学術会議会員、日本比較文学会会長などを歴任し、現在、全国大学国語国文学会会長。70年日本学士院賞、2013年文化勲章受章。『中西進著作集』(全36巻)など著書多数。

私は『日本人の忘れもの』と題する著作(ウェッジ刊)を3冊も出版したので、ずいぶんたくさんの「忘れもの」を数え上げてきたように思うが、一つ一つの事例よりもっと根本的なことを考えるべきだと、いまは考えている。
それは日本人が日本語によって認識し合ってきたことを、日本語という、紛れもない日本人の思惟(しい)の現われを通して確認することだと思う。
たとえば、日本人は幸福をどう考えていたか。幸福とは中国人の考えだから、この言葉からは何も見えて来ないが、日本人が幸福を「しあわせ」と言ったことから考えると、幸福が二つのものの相互の働きかけによって生まれるものだと考えていたことが分かる。
「しあわせ」とは「為合(しあ)わせ」。お互いの行動の出合いに幸福感を感じていたことがわかる。お互いとは、もっとも単純に言えば隣人同士だろう。この間にはお互いに対する善意や好意の向け合いがあって、幸福な人間関係ができるという信念が必要となる。一方的に他人に期待を寄せていては、一向に幸福にはならない。
あるいは、苛酷な運命に見舞われても、運命への働きかけによって、運命はこちらに好意を寄せてくれることになる。「果報は寝て待て」とばかりに何もしないと、ついに幸福にはなれないというのが「しあわせ」に込めた日本人の心だった。
こうした意志力、双方向的なベクトルの幸福の力学、それを日本人は忘れているのではないか。日本人をとかく受身的で、穏やかな民族だと考えるほうが、多数派ではないだろうか。
どうしてどうして、日本人はそんなに消極的だったり、諦めやすい集団ではなかったのである。
この一つをとってみても日本人は誇り高く自らを持し、紳士的に相手にも善意を期待する伝統を堅持していきたいと私は考える。
ノーブレスオブリージ― 高貴なる者が持つマイナスもいとわないことが必要であろう。
もちろん上に述べたように、相手も高貴な心の持ち主でなければ、善意は踏みにじられるだけだろうが、そこにあえて善意を求めるところに、誇り高い日本の特質が存在するのだといえる。

中西 進

床の間に秘められてきた
日本の心を失ってはならない

中村昌生
京都工芸繊維大学名誉教授
中村昌生

◉なかむら・まさお
1927年、愛知県生まれ。京都工芸繊維大名誉教授。福井工業大名誉教授。桂離宮整備懇談会委員、文化財保護審議会専門委員、京都迎賓館伝統的技能活用委員会委員長などを歴任。一般社団法人「伝統を未来につなげる会」代表理事。91年日本芸術院賞、98年京都市文化功労者、2005年京都府文化特別功労賞受賞。近著に『和の佇まいを』(宮帯出版)

幼い頃、床の間に上がると叱られた。戦後、日本住宅から封建性を追放しよう、と前衛の建築家たちが叫んだ。それでも床の間はなくならなかった。しかし床の間のない住宅が広がっていることは事実である。
床の間には、掛物(書画)を掛け、花を生ける。季節によって、また迎える客によって趣向をかえる。確かに床の間は飾りの場所である。
中世の書院造(づくり)という住宅様式のなかで「座敷飾」の作法が出来上がっていた。そこでは押板(おしいた)と呼ばれた所に掛物が掛けられた。床の間は一段高く畳を敷いた上段のことであった。書院造では、付書院(つけしょいん)や違棚(ちがいだな)も設けられ飾りに使われた。
茶をもてなす遊びである茶の湯でも、簡素ながら座敷飾をして客を迎えることを定めとした。そのために設けられたのは、押板でなく、身分の高い人がすわる形をした床の間であった。そこに掛物を掛け、花を生けた。
言うまでもなく、茶室は、亭主が客を招いて、客の前でお茶をたてて、もてなす座敷である。客を床前の上座(かみざ)に迎え、亭主が下座(げざ)にすわるのは当然である。亭主が謙(へりくだ)り、客を敬うことによって、客と亭主が心の触れ合う「直心(じきしん)の交わり」に高めよう、というのが茶の湯のもてなしである。
昔は大切な掛物は張付(はりつけ)壁に掛けるものであった。土壁に掛物を掛ける道を開いたのは千利休であった。「荒壁に掛物面白し」という言葉が伝えられている。やがて床の上段を圧縮した、奥行きのない壁床も現れた。壁床になっても、茶室における床の存在意義に変わりはない。
こうした茶室の床が、書院造にもとり入れられるようになり、押板の呼称はしだいに忘れられていった。そして民家や一般の住宅にも、主たる座敷には、茶室の床の間が設けられるようになった。
町家の奥庭に面した座敷、そこは庭から客を招き入れる構えにつくられている。それもながい座敷の伝統である。そして床の間が設けられている。これはただの飾りの場ではない。この座敷に客を迎える座と、亭主の座(すわ)る座、上座と下座の秩序が成り立っているのである。亭主は「謙虚」な心構えで、客を迎える。このもてなしの道理を忘れては、日本の誇る和食文化も「もてなし」に生かすことはできない。床の間は、亭主と客を結ぶ絆であり、そこに秘められてきた、自然への畏敬にも通じる「日本の心」を失ってはならないと思う。

中村昌生

内から外への中間の「軒遊び」
大人も見直し、楽しもう

秦めぐみ
京都秦家主宰
秦めぐみ

◉はた・めぐみ
1957年、京都市生まれ。生家秦家住宅は、18世紀半ばから近年まで薬種業を営んでいた商家で、明治2年上棟「表屋造り」の京町家。京都市有形文化財登録。96年から一般公開し、生活習慣や年中歳時など伝えながら維持保存に携わる。京都秦家主宰。

民俗学者、柳田国男氏の「軒遊び」という言葉は、幼児教育を専攻していた学生のときに聞きかじったことはあったけれど、今ごろになって、心に響いて聞こえている。なんとも、ゆかしい言葉だ。氏は、子どもが親のそばで過ごす内遊びから、外の生活へ出て行くちょうど中間を、「軒遊び」と名づけ、この時期が社会性を身につけていくうえで大切な成長段階であると説いている。「家に手があり愛情が豊富なれば、たいていは誰かがそれとなく見ている。眼に見えぬ長い紐(ひも)のようなものが、まだ小児の腰のあたりには付いているのである」そう書かれているのを読むうちに、自分の育った環境、幼いころ、この家や地域にあった気配が蘇(よみがえ)ってきた。
赤ん坊のころは、縁側に子猫といっしょに転がされていたと聞いているし、物心がついてからも、さりげない日常の営みの傍らに、やはり転がされていた気がする。その目の前を、正月、節句、お祭り、お盆、墓参りなど、年中行事は巡ってきた。折にふれ、人生の選択に際して、判断のよりどころとなっている心の根っこを作ってきたのは、複雑な商家の大所帯や、近所の大人たちのまなざし。同時にこのまなざしと共に受け止めたメッセージや、具体的な生活の仕方ではなかっただろうか。
軒は、自然素材で造られた日本家屋が、雨風を防ぐために屋根を長く伸ばして掛けることによってできた、家の内と外をゆるやかに結ぶ空間だ。庭を配した軒下の縁側は、毎日の生活の傍らにあって、自然を感じ季節感を確かめるオアシスであり、また、公道との境界の下屋は、個人と社会の接点としての役割を担ってきた。こうして、あらためて軒下の持つ意味を見つめなおしてみると、そこに、日本人独自の自然観や、社会とのコミュニケーションの在り方を見出すことができる。
しかし、季節の風が吹きぬける軒下のある日本家屋に替わって、現代は便利な機能優先型の暮らしにともなって、機密性の高い住宅やマンションが主流になっている。さらに、インターネットの普及により、私たちは自室に居ながら、買い物のできる便利さを得た。さてこの先の未来は、どのような社会が創られていくのだろうか。
12月29日、わが家ではお餅つきをする。最初のふた臼は、神さんに供える供え餅。つきたてのおろし餅に惹(ひ)かれて参加する大人も、子どもたちと一緒に「軒遊び」を楽しんでもらいたいと思っている。

秦めぐみ