日本人の忘れもの 京都、こころここに

おきざりにしてしまったものがある。いま、日本が、世界が気づきはじめた。『こころ ここに』京都が育んだ文化という「ものさし」が時代に左右されない豊かさを示す。

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京都発「日本人の忘れもの」キャンペーンプロジェクト

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第24回12月11日掲載
集う楽しみ
人と共にあることの安らぎや
心地よさを次世代に伝えよう

しらはた・ようざぶろう

国際日本文化研究センター教授
白幡 洋三郎 さん

1949年、大阪府豊中市生まれ。京都大農学研究科博士課程修了。農学博士。京都大助手を経て87年から日文研勤務。専門は都市文化論、産業技術史。著書に「プラントハンター」「近代都市公園史の研究」など。

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 毎年、桜の盛りの頃になると惟喬(これたか)親王は側近の在原業平らを呼んで、離宮がある水無瀬から付近一円に遠出して花見に興じるのであった。伊勢物語には、そんな9世紀後半の頃の花見の様子が記されている。

上下の区別なく
酒飲み和歌詠む
花見の宴

 「狩はねむごろにもせで、酒をのみ飲みつつ、やまと歌にかかれりけり。いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、上中下(かみなかしも)みな歌よみにけり」。

 桜が見事に咲いていると、狩りなどそっちのけで、木の下に座り、酒を飲み、桜の枝を髪に挿して和歌を詠む宴に熱中している。それも身分の区別なく、上位の者も中・下位の者も一緒になって…。物語の上でのフィクションがあるにしても、やはり花見の宴は皆が集まり共に楽しんでこそ「楽しい」のである。

 伊勢物語から千数百年、日本人は今日までずっと花見を続けてきた。しかも江戸中期以降の花見は、公家も武家も農民も商人も、そして都市の下層民ですら(落語の「長屋の花見」のように)楽しむことができる行事になっていった。花見は日本以外では見られない珍しい文化である。

騒がしくても生み育てられた上品な文化

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 ところが、桜は好きだが、花見は騒がしくていやだ、下品だという人がいる。たしかに花見の場では迷惑な困った振る舞いが見られることがある。

 しかし一方で、数多くの「上品」な日本文化を育ててきたのは、(騒がしく下品な)花見である。和歌、連歌、俳句、川柳などの文芸も、能、狂言、歌舞伎などの芸能も、そして絵画、工芸、衣装、料理までも。花見のおかげで発展してきた文化は広い範囲に及ぶ。

 日本に「桜があったから」ではない。千年以上にわたって「花見が行われてきたから」である。植物学上のサクラなら、日本以外にも北半球の温帯全域に広く分布している。サクラの役割は無視できないけれども、花見の「桜」よりは「集い」が文化を生み育てたのである。

 いまも学校や職場単位で、また家族や友人と共に日本人は花見に興じる。上下の区別なく楽しめる場が花見の理想だからである。そのような心情が日本の各種の「集い」を生み出してきた。

 忘年会や新年会、歓迎会や慰労会、あるいは近頃新しい表現の「女子会」など、「集う楽しみ」は、この国にはたくさんあり、また新しく開発されたりしている。これらの生みの親は「花見」と見てよい。

わずらわしく思う風潮が強まる気配

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 もちろんすべての集いが心沸き立つ催しとは限らない。そこで昨今は、こうした「集う楽しみ」をわずらわしく思い、過小評価したり嫌ったりする風潮が強まっている気配も感じられる。

 大事なのは人と共にあることの安らぎ、心地よさ、すなわち集う楽しみをまずは素直に受け止めること、そしてさらによりよい集いの文化として次代へ伝えてゆくことではないか、と思うのである。

<日本の暦>

事始め

 事始めは、正月事始めとも呼ばれ、昔から師走に迎春準備を始める日でした。すす払いは、その代表です。

 京都では今も旧暦と同じ12月13日が事始め。弟子が師匠へ、分家が本家へ進物を持って伺い1年の感謝を捧(ささ)げます。祇園の花街に残る事始めの風習は「おことーさんどす」のあいさつとともによく知られています。

 日本で古代から江戸中期まで使われた「宣明暦(せんみょうれき)」では、毎年12月13日は必ず暦注・二十七宿の「鬼宿」に当たり、最大吉運日でした。年末宝くじを買うならこの日かもしれません。

<リレーメッセージ>

寺田バレエ・アートスクール校長・高尾 美智子さん

■ウクライナとの交流~人づくりの芸術教育

 「子どもたちが素晴らしい人と出会い、本物のアートと出会う。これこそ人生の土台、国づくりだ」と思い1975年、当時のソ連邦とバレエ芸術で交流を始めました。「百聞は一見にしかず」の言葉通り、両国の子どもたちは文化・芸術を学び心豊かなアーティストとして世界に羽ばたいています。

 寺田バレエの卒業生たちも日本人であることの誇りとハングリー精神を持ち、感謝と謙虚を忘れずに学び通している姿に、私自身誇りを持ち、生きがいになっています。

 モスクワ五輪ボイコット、ソ連邦からのウクライナ独立、チェルノブイリ原発事故など危機の中でも、今日まで交流が続いているのは芸術家同士の友情そのものです。命がけで行動しても先の見えない時代に、異国の方々より教えられる日本人が失いつつあるものを忘れないためには、やはり芸術教育こそ最良の治療薬と自負しています。

 世界の人々の憧れの街、京都・吉田の地でアーティストが集まり、責任を持って世界に発信すべき時が来たのではと痛感しております。


 (次回のリレーメッセージは、国際墨アート作家の河原林春陽さんです)

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