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- 第21回11月20日掲載
- 宇宙に想いを
星空も見えぬ過剰な都市の光
宇宙が語ることばを聞こう…
京都大名誉教授
小山 勝二 さん
1945年愛知県生まれ。京大大学院理学研究科博士課程単位修得退学。京大理学部教授などを経て2009年名誉教授。専門はエックス線天文学。日本のエックス線天文衛星計画すべてに参加。「京都千年天文学街道」を提唱した。
私が生まれ育った田舎では月のない夜は満天の星空でした。日没後、東の空から駆けあがるオリオンの姿を最初に見た時、「ああもう冬なのだなあ」と思ったものです。農耕にいそしんでいた私たちの先祖も、夕闇がせまり野良仕事から帰宅する途中に見る星空から季節の移ろいを感じてきたことでしょう。
鴨川のほとりは
2等星ぐらいしか
見えない
京都に住まいを移して星空がたいそう貧相なのにがっくりしました。鴨川のほとり、毎晩の散歩の折に仰ぐ星空には2等星くらいまでしか有りません。都市には人口の光があふれているためです。
飛鳥時代のキトラ古墳には星図が描かれています。実際の星の配置にかなり忠実で、世界最古の星図といえるでしょう。この星図には天の赤道、黄道、年中地平に沈まない星空を示す円と、一時期でも星が見える天空を示す円までも描かれています。北極星を中心とするこれら二つの円から、この最古の星図の原図は飛鳥の地の観測で作られたものではなく、高句麗経由で飛鳥に伝わったものと推定できます。残念ですが、農耕民族、日本人は自らの宇宙像を作り上げてきたわけではないようです。
それでも平安時代になると、独自の宇宙観測をするようになりました。平安京に陰陽寮という役所があり、天文博士という官職がありました。有名な陰陽師(おんみょうじ)、安倍晴明(あべのせいめい)とその子孫は代々、天文博士を継ぎました。彼らは部下の天文生を指導して天文観測を行い、天文異変を発見すると、それに吉凶の占いを付して、天皇へ上奏しました(天文密奏)。彼らは毎日、寅(とら)と戌(いぬ)の刻(午前4時と午後8時ころ)に定時観測をしたようです。
もちろん望遠鏡などはなく目視観測です。場所は、陰陽寮かその付近、現在の千本丸太町の東北のあたりだったでしょう。現在の京都からは想像しがたいですが、平安京ではこのあたりでも満天の星空がみえたでしょう。
肉眼で観察した明月記の超新星爆発
晴明の子孫が観測し、天文密奏にしたためた天変の中に超新星がありました。超新星とは重い星が一生の最期におこす大爆発で、私たちが一生のうち一度でも肉眼でみることはないだろうといえるほどに稀(まれ)な天空の大事件です。平安末期から鎌倉時代初期に、宮廷歌人、藤原定家はその貴重な超新星の記録を明月記に残しました。これが歴史に記された初めての例として世界中の天文学者の注目をあび、現代の天文学の発展にも多大な貢献をしました。現在、私たちは最新の観測を基に胸躍るような宇宙像を描けるようになりましたが、天体観測の原点は肉眼によるものだったのです。平安時代の目視観測の成果は日本が世界に誇ってもいいものです。
エネルギーの無駄な消費を避ける
平安京まで逆行しようとはいいませんが、過剰な都市の光をすこしでも減らすことはできないものでしょうか。宇宙が語ることばに謙虚に耳を傾け、人間らしい感性や未来の希望を育む心が、目の前の便利さや快適さのみを追い求め、原発事故や子孫の代までも深刻な負の遺産を残さないこと、つまりエネルギーの無駄な消費を避けることにもつながるのです。
<日本の暦>
小春(こはる)
「まことに今日は霜月廿日(はつか)、わが身代わりに…」。上杉、武田両家の争いを題材にしたお芝居「本朝廿四孝」に出てくる有名なせりふです。霜月は旧暦11月の異称。たしかに「じゅういちがつ」では、せりふとして語呂がよくないですね。
月名の異称は、数多くあります。「小春」は旧暦10月の異称。おおむね新暦の11月に当たります。寒風が吹き始めるこの時期、晴れた暖かい日がぽっと現れる。小春日和です。
ほっこりする小春は長続きしません。23日はもう「小雪(しょうせつ)」(二十四節気の20番目)。11月には雪待月、仲冬などの異称もあります。
<リレーメッセージ>
■わたしの京都観
高度成長期に育った私は、真の都であった京都を知らずして生きることに、少し物足りなさを感じている。
江戸時代、三重県の貧しい農村に生まれ、京の呉服商で奉公した後、独立して家業を起こした初代以降、この地で代々を重ねてきての今日であるが、明治の終わりの人間だった祖父母はもとより、彼らに育てられた両親からも、天皇が東へ遷(うつ)られたことに対する個人的な感慨がもらされるということはほとんどなかったように思う。
京都が千有余年もの間、他所の人々から羨望(せんぼう)され続けてきた本当の理由は、山紫水明の地であったり、美味豊富な土地柄であったことだけではなかったことを、京都に生まれ育った者にとってさえ、思いをおよばすことが昔ばなしになってしまった現在の京都を私はさみしく思う。
東日本大震災を経て、首都機能の分散、移転がクローズアップされる今日、かつての王城の地に返り咲くことはかなわずとも、何かしら新しい絶対的な象徴を再び得た京都に生きてみたいと、漠然とした妄想をしてみたりしている。
(次回のリレーメッセージは、ハープ奏者の内田奈織さんです)