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- 第14回10月2日掲載
- 能の心
古典はいつの時代も瑞々しく
私達の心に深い感動を与える
能楽金剛流宗家
金剛 永謹 さん
シテ方金剛流能楽師。1951年、二世金剛巌の長男として京都市に生まれる。56年「猩々」で初舞台。98年に金剛流26世宗家を継承。公益財団法人金剛能楽堂財団理事長。国内に限らず海外公演も多い。
幼い頃、「お月様で兎(うさぎ)が餅つきをしているよ」と教えられ、月の影の模様を飽かずに眺めた。爽やかな心地よい風が吹くと「極楽の余り風」などと昔の人は風雅な、温かみのある言葉を使っていたと思う。日本人の研ぎ澄まされた感性は、自然の中で培われてきた。そこにはいつも自然に対する深い畏敬の念と感謝の心が在った。
静かに語りかけて
観る人の心を投影する
能は六百余年にわたり、様々な時代を乗り越えながら今日まで綿々と続いてきた。長い歴史の中で数え切れない程の人々が能を見つめてきた。喜びや悲しみや、人生というそれぞれの歴史を背負う人々に、能は静かに語りかけてきた。能は寡黙な演劇といわれるが、時に私は、その中に秘めた、多くの人々の思いを受けとめて包み込むような懐の深さに、はっとすることがある。それはつまり、能は観る人のイマジネーションを掻(か)き立て、心を投影するということであろうか。
先日、私の曽祖父である金剛謹之輔の映像が発見された。1912(大正元)年に京都で撮影されたもので、現存最古の能楽の映像がフランスのアルベール・カーン博物館に所蔵されていた。私も初めて謹之輔の舞姿を目にして衝撃に似た感銘を受けた。毅(き)然とした立ち姿や、ほとばしる躍動感、伸びやかな舞姿から、溢れ出る生命力が感じられ、私は背中を強く平手で叩(たた)かれたような気がした。
百年の時を超えて現代に蘇(よみがえ)ったことに、われわれに向けて託された強いメッセージを感ぜずにいられなかった。
亡霊が描く孤独の中で到達する究極の精神世界
能は、演目ごとにテーマを変えながら、時代を超えた人間の本質的なものを描いているが、その中で多く登場するのが亡霊である。亡霊は、今を生きる私達に人間の情念や生老病死をまざまざと描き、語りかけてくる。この世の中で本当に大切なものは何なのか、生まれてきて死ぬということは、等々…。これは誰でもが避けては通れない永遠のテーマで、人が最終的に孤独の中で到達する究極の精神世界ではないだろうか。
日々、息つく暇もなく溢れ出る過剰な情報の中で、目に見えるものばかりにとらわれ、利便性を追い求め、己を見失いかけている私達はその声に耳を傾け、自分の心と向き合い、自分の心に問いかける時間を持つことが必要なのではないか。
人間本来の感性や生命力を失いつつある
あまりに便利になった世の中で、自然の織り成す四季の移ろいも感じられなくなり、生物として本来持っている人間としての感性や生命力を失いつつあるような気がする。
古典は、概して古くさい過去のものと思われがちだ。しかし、人類の永遠のテーマである「本当のもの」を追求している古典は、いつの時代も瑞々(みずみず)しく、私達の心に深い感動を与えるものである。
今回発見された百年前のフィルムは、そういうことをあらためて思い起こさせてくれた。
<日本の暦>
水始めて涸(か)る(10月3日ごろ)
田の水を干し始める候。つまり田の水を抜いて稲穂の刈り入れ準備をする季節で、黄金色に輝く田をスズメよけの鳴子やカカシが見張る…という光景がこの時候の風物詩。
日本の七十二候の元となった古代中国の七十二候でも、この時候は同じように「水始涸」と呼んでいたといいますから、稲作の歴史も感じさせてくれる言葉ですね。さて、お米屋さんの店先に「新米入荷」と大書されるのもそろそろかと。味覚の秋の始まりです。
<リレーメッセージ>
■素読
小学生のころ、漢詩の一節を暗記させられたが、最近になって、何にも代え難い教えだったと感謝している。
御所西にある江戸中期の儒者皆川淇園の学問所である弘道館址の屋敷を現代の学問所として再生させる活動をしている。全国から門弟三千人が集った大事な場所だが、その存在すら忘れられていた。
江戸時代の学問は儒学であった。堅苦しいイメージがあるが、子供もみな論語などの経書を読んだという。ただ、その教育スタイルが「素読」と呼ばれる漢文の音読暗記の学びであったことは意外に知られていない。
声にだして覚えるということは、ことばに込められた古人の知と美のリズムを体内に刻みこんでいくということである。とりわけ論語ならば同時に君子の教えが身に付き、人間形成に役立つ。一石二鳥であった。
そうした身体をとおした学びは江戸時代の人々の教養となり、今の日本の豊かな知識文化をつくったのである。あるいはまた、震災後に話題になった日本人の品性の基礎をなしたといっても過言ではないだろう。
忘れられた素読の文化。たまには漢文を声にだして読んでみませんか。
(次回のリレーメッセージは、小説家の松村栄子さんです)