日本人の忘れもの 京都、こころここに

おきざりにしてしまったものがある。いま、日本が、世界が気づきはじめた。『こころ ここに』京都が育んだ文化という「ものさし」が時代に左右されない豊かさを示す。

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京都発「日本人の忘れもの」キャンペーンプロジェクト

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第13回9月25日掲載
師弟の関係
安易に教えず自ら考えさせる
厳しさと慈愛に薫陶を受けた

えんじょう・みか

ソロ フルート奏者
園城 三花 さん

京都生まれ。北西ドイツ音楽大青少年特別クラス、ミュンヘン音楽大卒業。ヨーロッパ日本で演奏活動を展開。アトピー患者を支援する活動にも従事。NPO法人三つの花希望プロジェクト代表。

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中3の秋
涙とともに留学を決断した

 京都に生まれ、京都に育った私は、クラシック音楽を勉強するため、中学を卒業してすぐにドイツへ留学しました。卒業後、やみくもに渡独したのではなく、恩師マイゼン先生とは小学5年生の時にすでに出会い、音楽をより深く理解するために、なるべく早く師の元に来るよう促されました。当時11歳の私には、メルヘンの国への移住は夢物語、すぐにでも一緒について行きたい気持ちでした。

 そして4年後、中学3年の秋、留学を自身で選択しました。決断した夜、なぜか涙が止まらなかったことを鮮明に覚えています。未知への恐れからだったのか、日本を離れる寂しさからだったのか、涙の溢(あふ)れた理由は今もわかりません。将来への不安や家から離れることが寂しいというものではなかったように思います。捉えどころのない心の戸惑いが蘇(よみがえ)ります。ひょっとすると、あの涙が、今なお演奏家を続ける私を、支えているのではないかとも思えてきます。義務教育を終え、ようやく先生の元で、憧れのフルートの音色を聞きながらレッスンが始まりました。

今の演奏は良かったか? 悪かったか?

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 日本では技芸は習うのではなく、師匠の技を傍らでよく見聞きし、自分で工夫して習得するものとされています。雅楽や邦楽の世界にも今は楽譜もありますが、稽古は口伝が基本なので弟子は自身の耳で覚え、伝統を受け継いできました。

 西洋音楽は楽譜が基本ですが、自分で考え創ったものを、稽古の時に先生とディスカッションしながらより良いものに仕上げます。レッスン中、何げなしに吹いていると、「今の演奏はよかったか? 悪かったか?」と急に質問され、こちらも質問されるぐらいだからきっと下手だったのだと察し、「うまくなかった」と返答すると、「いや、今のは良かった。悪い演奏は誰にでもわかる。良いのを自分でわかるようにならないといけない」。

 師は安易に教えず、多くを自ら考えさせ、時には長々と待ち続け結果だけを求めることはしません。

厳しい芸の道 目先の楽しみを犠牲にする覚悟を

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 マイゼン先生は私にとって憧れの音楽家であり父親のような存在でもあります。やさしく慈愛に満ちた先生ですが、一度だけ、関係に亀裂が入ったことがあります。

 19歳の春、学内特別演奏会の出演者を決める選考演奏をした際、自分が選ばれると思っていたのに、先生は険しい声で他の人を指名されました。私は腹立たしさでいっぱいになり、その後1年間は、距離感のある師弟関係になりました。師の立場から考えると、私の演奏は甘えのある、腹立たしいものであったに違いありません。だんだんわだかまりは消えましたが、しばらくは互いに笑顔でこの件に触れることができませんでした。ステージは真剣勝負、頼れるのは努力に裏打ちされた実力だけ。私は心に刻みました。

 洋の東西を問わず芸の道は厳しく、技を身につけるためには目先の楽しみを犠牲にする覚悟が必要です。

 物があふれ、簡単に楽しみを買うこともできる日本。人との関わり方も表面的になり、尊敬できる人から薫陶を受けることも、少なくなってきているように思います。

<日本の暦>

秋分(9月23日ごろ)

 秋分は「秋彼岸」とも呼ばれ、彼岸の入りから彼岸の明けまでの間をいいます。

 秋分の日はその中日。春分と同じく昼と夜の長さがほぼ同じになり、真東から出た太陽が真西に沈む日だといわれ、先祖をしのんで墓参りやお団子などの供え物をします。

 ちなみに秋彼岸に供える団子が「おはぎ」、春彼岸は「ぼたもち」。萩のもちと牡丹(ぼたん)のもちの意で、同じ団子を呼び変えて季節感を表したのです。虫たちは巣ごもりを始め、いよいよたけなわの秋の到来です。

<リレーメッセージ>

同志社大文学部教授 植木 朝子さん

■時雨(しぐれ)

 東京から京都に移り住んで七年になる。はじめての年、驚いたのは冬の雨の多さである。特に秋の終わりから冬の初めにかけて、気まぐれな空は、晴れたまま雨を降らせたり、さっと曇ってひとしきり降ったかと思うと、また何事もなかったかのように晴れ渡ったり。「時雨」という美しい名で呼ばれる雨だ。初冬に降る通り雨といった「時雨」の辞書的な意味を知ってはいても、東京でそれを経験することはほとんどなかった。

 古典和歌には「色々に染むる時雨にもみぢ葉は争ひかねて散り果てにけり」のように、時雨が木々の葉を染めるという表現が頻出する。時雨が降るたびに紅葉の色が深まっていくことを、私は京都ではじめて実感したのである。時雨によって木の葉が色づくという和歌の類型は、まさに京都でこそはぐくまれたのだった。

 室町時代末の流行歌謡・小歌(こうた)の中には、屋根に降りかかる時雨の音に孤独を慰めようとする、こんな一首もある。

  せめて時雨れよかし

  ひとり板屋のさびしきに

 こうした、身近な自然に寄り添う繊細な感性を大切にしたいと思う。


(次回のリレーメッセージは、伝統文化プロデュース・連-REN-代表の濱崎加奈子さんです)

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