日本人の忘れもの 京都、こころここに

おきざりにしてしまったものがある。いま、日本が、世界が気づきはじめた。『こころ ここに』京都が育んだ文化という「ものさし」が時代に左右されない豊かさを示す。

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第4回7月24日掲載
いけずの裏側
人の振りみてわが振り直せ 生活に息づく批評の目

やまおり・てつお

宗教学者
山折 哲雄 さん

1931年米国生まれ。東北大学大学院文化研究科博士課程終了。国立歴史民族博物館教授、国際に本文化研究センター所長など歴任。専攻は宗教学・思想史。著書は『近代日本人の宗教意識』(岩波書店)など多数。

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 たまたまタクシーにのっていて、女性ドライバーと話がはずんだ。「いけず」という京ことばをめぐって、「私も京生まれの京育ち、つくずくいけずな京女と思いますわ」と返ってきたからだった。

間合いはかり
溜めつくり距離とり
感覚をすべりこます

 はにかむような口振りではあったが、臆するところがすこしもなかった。むしろそんな自分をいとおしむかのような気配さえうかがえたのである。

 間合いをはかり、溜(た)めをつくって、相手を見ている。距離をとり、やんわり批評している。いつのまにか自分の意見や感覚をすべりこませている。それがいけずな眼差しや態度を生みだすもとになっているかもしれない。そんな話に花が咲いたのだった。

 私は以前、折口信夫の文章を読んでいて、「日本人の芸能はもともと"もどき"芸だった」という考えにぶつかって、驚いたことがある。雁(がん)もどきのもどきである。それがいつしか、にせものやまやかしの別名として使われるようになった。しかしそれは違う、と折口はいっていた。なぜならこの大和ことばには、模倣したり学習したりする意味の裏側に、じつは「批評する」行為が隠されているからだという。

 たとえばお能の翁(おきな)舞をみればよい。はじめ白い翁面をつけた役者が出てきて舞いを披露するが、あとから黒い面の翁(三番叟(さんばそう))が出てきて、同じような舞いの所作をくり返す。しかし同じようにはみえるけれども、よくみるとどこかが違っている。よく観察すると新しい工夫がほどこされている。

もどき芸 先行作品に新奇な味付け

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 そういえば和歌における本歌取りの手法なども、その部類に入るといっていいだろう。先人の和歌の一部分を盗みとって、自分の新作にすべりこませる。先行作品に新奇な味つけをして優劣を競う。盗みとる手練の技をみがく。その裏側に批評の目が光っている。それが曇るとき、作品はたんなる模造品に堕してしまう。

 人の振りみて、わが振り直せ、ということだ。もどき芸とは、何も食品や芸の道だけの話ではなかったことがわかる。われわれのライフスタイルの根本にまで、その手法は息づいている。

 それがいつごろからか、コピー器械が鳴り物入りで登場し、コピー文化、複製文明が社会のすみずみにまで及ぶようになった。学生たちは資料をコピーするだけで覚えた気になり、安易なコピー操作を通して、盗作問題がしばしば世間を騒がすようになった。それどころかもどき食品が姿をかえ、いたるところ品質低下の汚染食品をまきちらすことにもなった。

一見さん、お断り おもてなしのもう一つの真意

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 もっともこれは人ごとではない話だった。東北育ちの私は、京都の地にやってきて「一見(いちげん)さん、お断り」のしきたりにたじろいだことがあった。覚えたばかりの"いけず"とはそのことかと思ったのであるが、それはたんなる誤解だった。やがてそれが、「おもてなし」ということの、もう一つ裏側の真意であることを知らされることになったからである。

<日本の暦>

大暑(7月23日ごろ)

 大暑は夏至から数えておよそひと月後にやってくる節気。入道雲が白さとかさを増して、青空とのコントラストも鮮やかな夏真っ盛り。学校も夏休みに入り、「蒸し風呂」にたとえられる京都のうだるような猛暑が続きます。朝夕の打ち水(水まき)をはじめ、涼を求める昔ながらの知恵が発揮されるころです。翌日は祇園祭の還幸祭で、花傘巡行も行われ、一カ月に及ぶ祭りはフィナーレに近づきます。

<リレーメッセージ>

日本舞踊家 西川千麗さん

■風貌(ふうぼう)

 先頃、ポーランド(クラクフ)より写真集「OUR MAN IN JAPAN」が届いた。一九三四年、写真家アレクサンドロヴィッチの撮影した日本、その殆(ほとん)どは、京都の風景と市井の人々のモノクロ写真である。当時の清水寺や南座・市中の商店や道端に、気骨を滲(にじ)ませる年配者、純な眼差(まなざ)しの青年、素朴な子供。異国の人は、いつも日本が失ってはならないものを示唆してくれる。

 一八九〇年、新聞記者として来日し、後に日本に帰化したラフカディオ・ハーン。一九二一年、駐日大使として来日の詩人・劇作家ポール・クローデル。私は彼等の日本文化への思いがけぬ切り口と、それを愛(いと)しむ思いに触発され、以前、舞踊作品を創(つく)った。

 日々の暮らし、生き様はその貌(かたち)を変え、目に見えぬ面差(おもざ)しの風(ふう)も変えて了(しま)う。

 日本人の風貌の変容を眼前に、ふと、私の"いかり肩"が、きものだけの年月にいつしか撫(なで)肩になっていたことを思い、日本舞踊の芸風の変容、その行方は…と思いを馳(は)せた。


(次回のメッセージは、京南倉庫株式会社代表取締役の上村多恵子さんです)

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