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- 第49回6月10日掲載
- 自然の営み
自然の物差しをよく知って、
人間の方を作り直す謙虚さを
「植木屋」
佐野 藤右衛門 さん
1928年京都市生まれ。江戸期より植木を手がける「藤右衛門」を襲名。16代目。「桜守」としても有名で、京都・円山公園、ドイツ・ロストックなど内外の桜を育成。「桜のいのち庭のこころ」などの著書がある。
最近、異常気象や大きな災害が起きたと大騒ぎするが、自然とはもともとそんなものだ。自然の営みはここ一億年くらいはそんなには変わっていないはず。人間が自分勝手な物差しを作って、その物差しで自然を測ろうとするから大変だ、と大騒ぎしなくてはならなくなる。
自然に逆らいすぎている
人間の身勝手
人間は自然に逆らいすぎている。他の生き物は逆らうことなく、自然に合わせて生きている。私の仕事も、自然に合わせてやらないと仕事にならない。木をひとつ動かすにも時期がある。自然の営みを無視してはできない。
以前、宇宙に円山公園の桜のタネを持っていく話があった。私はタネは下へ落ちたがるものだ、ばかなことをするなと反対した。結局、100粒持っていったが、ほとんど発芽しなかった。そういう発想をすること自体が人間の身勝手だ。
日本人についていえば、日本の自然、気候風土の中での立ち位置を忘れてしまっている。現代はもろもろの機械の力を借りて生活するようになった。詰まるところが原発で、手に負えなくなったら大騒ぎだ。昔のように水力で発電していたころは、電気はどうしてできるのか私たちは分かっていた。けれども今、原子力による発電の仕組みは専門家しか分からない。しかも専門家はそれだけしか分からないから始末が悪い。全体を総合的に見通せない。基本的に自然の仕組み、営みが分かっていない。
個々人をみてもそのことはいえる。自分のことだけを考えている。自分の存在感だけは分かっていて、回りのことは何もかも忘れてしまっている。
「米の文化」を忘れ「麦の文化」を安易に受け入れた
なぜこうなってしまったのか。思うに日本は「米の文化」なのに、それを忘れて西洋の「麦の文化」を安易に受け入れてしまったからだろう。稲の刈り取りが終わって麦をまく。麦が終わって苗を植える。始まりが逆だから発想も逆なのが当たり前なのに、麦に合わせた発想をするようになってしまった。
家を見ても高層マンションがもてはやされ、上へ住むのがいいように言い立てる。町中の川も両岸をコンクリートで固めて雨どいのように水を流す。これは米の文化ではない。地面(平地)と水回りを重視し、これらをうまい具合に加減しながら使うのが米の文化だ。特に水の使い回しは昔から第一級。なのに現代人はその価値を忘れてしまっている。
しゃくし定規で、本来あるべき「遊びの間」もない
だから、日本の社会に本来あるべき「遊びの間」もなくなってきている。しゃくし定規に物事を考え、わずかでも自分の物差しに合わないと間違いだという。「1+1=2」というのは固定的な考えだ。2は0.5を四つ足してもいい。2に導く答えはいくつでもあるのに自分で考えて答えを出そうとしない。私たち職人はあほなことをいいながら、間をもって弟子に考えさせて仕事への心構えや技を伝えてきた。
今すぐ昔に戻れというのではない。大事なのは、相手(自然)の物差し(営み)を知り、それが人間の物差しと合わなかったら、人間の物差しを作り直す謙虚さだ。
<日本の暦>
漏刻(ろうこく)
6月10日は日本の暦にとってメモリアルデーです。日本書紀には天智天皇10年の4月25日(グレゴリオ暦換算671年6月10日)、「天文台に漏刻を置き初めて候時を打つ」とあります。1920年からこの日が「時の記念日」になりました。
漏刻は古代の水時計です。階段状に並べた数個の木箱に一定速度で水を流し時間を計りました。暦と時間は一体のものですが、天智天皇当時は百済の元嘉暦を使っていました。
日本の公暦はその後、中国産の儀鳳暦、宣明暦などが使われ、江戸時代になって貞享、宝暦、寛政、天保の各国産暦を経て1873年から現行の新暦に移りました。正確な時間と暦の追求は、精緻を好む日本人の伝統的気質といってよいでしょう。
<リレーメッセージ>
■美しい日本語
私は鹿児島の出身ですが、子供の時に標準語に憧れた時期がありました。ラジオから流れるアナウンサーの話し方が、本当に美しく、声に出して真似(まね)をしたものです。子供ごころに、言葉の力に魅せられたのでしょう。今も日々店に立ち、お客様と接しておりますと、言葉の持つ不思議な力を実感しております。
良い言葉は人として成長できるし、相手との絆や友情がいっそう深まることもあると思います。
ところが、最近、気になることがあります。テレビなどを見ていますと、ご挨拶(あいさつ)、お礼の仕方、敬語の使い方が、なにか置き去りにされているようで寂しくなります。その時々で正しく、美しい日本語を話せる力を身に付けると、言葉は輝きを増します。相手を思う、大切にする言葉は、自己を最大限に表現することとも繋(つな)がります。その意味では、京ことばは尊重されているように感じます。
アナウンサーを真似した頃から随分と時間がたちましたが、もう一度、美しい日本語を学び直したいと思っております。
(次回のリレーメッセージは、宝鏡寺門跡の田中恵厚さんです)