日本人の忘れもの 京都、こころここに

おきざりにしてしまったものがある。いま、日本が、世界が気づきはじめた。『こころ ここに』京都が育んだ文化という「ものさし」が時代に左右されない豊かさを示す。

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京都発「日本人の忘れもの」キャンペーンプロジェクト

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第48回6月3日掲載
「優しさ」と「辛抱」
こまやかな佇まいや敬語…を
心身にごく自然な感覚で湛える

かたやま・くろうえもん

能楽 シテ方
片山 九郎右衛門 さん

1964年、京都生まれ。70年に「岩舟」で初シテ。父は人間国宝の片山幽雪さん(九世九郎右衛門)。姉は京舞井上流五世家元・井上八千代さんで、文化勲章受章者の四世家元・井上八千代さん(故人)は祖母。昨年1月、十世片山九郎右衛門を襲名。海外を含め多方面で活躍する。

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 「忘れもの」と聞き、すぐ思い浮かぶのは「取り返せる」ということです。

 長年、能楽の世界に身を置いていますが、「優しさ」と「辛抱」について、日ごろ感じていることを述べたいと思います。

辛抱をほめ優しく教えて
子どもが育つ

 昨秋、京都では都道府県持ち回りの「国民文化祭」がありました。私は総合閉会式の舞台プロデューサーを担った縁で、府内の小学校、高校に出向き、講演や伝統芸能の指導で少年少女の皆さんに出会う機会が増えたのです。

 関心のある人を除けば、能楽舞台と無縁な人がほとんど。そんな雰囲気のなか、能楽の話が子どもたちに果たして受け入れられるのか、正直、不安もありました。

 牛若丸と弁慶の逸話など、年配の人ならすぐ分かる話でも、子どもの中には「牛若丸って?」という反応が少なからずあり、伝える難しさを痛感します。

 わが子で言えば、稽古の時に、子どもは最初からじっとしていることができません。ここで大人が「辛抱が足りない」と厳しく言うと、子どもは苦痛ばかり感じてしまう。教える親としては考えます。最初は「30秒だけ、じっとしようね」と。できれば、ほめる。すると、子どもは気を良くする。30秒できれば次は60秒…と、徐々に時間を延ばし、最終的には1時間、1時間半…と、正座できるようになります。「辛抱」を辛抱と感じなくなるように稽古します。この辛抱が大切。辛抱は、教え、諭すほうの大人の側にも欠かせません。

全ての基本は型通りではない挨拶に始まる

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 小学校では、挨拶(あいさつ)の基本から話します。私自身、昔は挨拶から入ることに、「何を四角四面なことを…」と、形にこだわることに抵抗を覚えましたが、最近は「心には形がある」と実感します。分かりやすく言えば、稽古場と日常生活を切り離してはいけない。上下をわきまえた敬語、こまやかな佇(たたず)まい…。心身に、ごく自然な感覚として湛(たた)えられるようになってこそ、能の動きにもなっていく。他の世界のことは分かりませんが、全ての基本は、型通りではない、心からの「挨拶に始まる」と言っても過言ではないでしょう。

絵本づくりで逸話通じて理解してもらう

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 子どもたちに能楽を理解してもらうことを念頭において、「能の絵本づくり」を現在、続けています。10年前、「能楽を通じて何がしたいか」と、京都新聞の取材で問われ、答えたのがきっかけでした。幸い「大会(だいえ)」(天狗(てんぐ)の恩がえし)、「舎利(しゃり)」「隅田川」など、絵本もご好評を得ており、意を強くしています。

 天狗の恩がえしは、いたずらが原因で命を落としかけた天狗が、通りすがりの僧侶に助けられ、その御礼に、天狗は釈迦に化け、説法姿をみせる。その際の条件「(その姿に)信心してはいけませんよ」との天狗の忠言を忘れ、「ありがたい、ありがたい」と僧侶が合掌したところ、天から帝釈天(たいしゃくてん)がやってきて天狗を懲らしめてしまう、なんともかわいそうな話です。ただ、その僧侶は、天狗に温かな目を注ぐ-。「優しさ」と「辛抱」といった逸話は、能の中に数多く残っています。

 能役者は、役になりきり、舞や所作で心情、心を表現します。心を研ぎ澄まし、形にし、観客に伝える。この追求こそ、今の私に与えられた仕事、と思っています。

<日本の暦>

麦秋(ばくしゅう)

 麦畑が鮮やかに色づいて、収穫時期を迎える今の時期を麦秋といいます。旧暦4月の異名の一つにもなっています。

 「むぎあき」とも読み、七十二候は5月31~6月5日ごろを「麦秋至(いたる)」としています。麦秋の「秋」は季節の秋ではなく「とき」と解する方が正確です。すなわち麦が実る時なのです。

 小津安二郎監督の名作に「麦秋」(1951年)がありますが、題名の英語訳は「EARLY SUMMER」でした。

 ラストシーンの、波打つ麦畑とかやぶき農家の対比。モノクロ映画でありながら、美しい日本の原風景に見ほれてしまいます。

<リレーメッセージ>

京都橘大名誉教授 田端 泰子さん

■慈愛と尊敬

 一昔前までは「お父さんのような立派な社会人になりたい」とか「お母さんのようなやさしい母親になりたい」という子供がたくさんいた。しかし最近の子供は自分の力で大きくなったかのように錯覚し、親は子供に確かな将来像を与えにくくなったため、親子関係はギスギスしたものになっている。

 歴史を振り返ると、武力が重視された鎌倉時代でさえ、父母や祖父母は子供たちを命がけで守り育てた。いっぽう、子供が最も尊敬したのは父母であり、親を「教令者(きょうれいしゃ)(教え導く者)」として敬い、家業や財産を譲与してくれる保護者として敬愛した。各家での親子の絆を核に、一族の結束が守られたのであり、親の慈愛と子の尊敬によって成り立っていたのが、日本の中世社会だったといえる。

 鎌倉幕府は、親は「教令者」であるからと、子が実の親を裁判の場に引き出し、親と譲与財産や所領をめぐって争うことには、子に対し厳罰を課すことで対処している。敬うという言葉にも、畏敬・尊敬から形式的な拝啓まで多くの偏差がある。物資が豊かでない時代に、かえって日本人の心や本質が顕現するのではないだろうか。


(次回のリレーメッセージは、(株)井澤屋の井澤國子さんです)

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