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- 第40回4月8日掲載
- 思いやり
品格出す「思いやりの心」は
止め処もなく広く大きいもの
有職御人形司
伊東 久重 さん
1944年京都市生まれ。同志社大在学中より御所人形の制作をはじめる。十二世伊東久重継承後、国内および海外で個展を開催。主な収蔵先は皇居、東宮御所、京都迎賓館など。同志社女子大講師。
「弱いもんいじめをしたらあかん」。子供の頃いつも親にこのように言われ、優しい思いやりのある人間になるよう諭された。これは親だけに限ったことではない。学校の先生や近所の大人たち、上級生にも常に言われた言葉である。その時に教えられた弱いもんとは、年寄りや年少者や体の不自由な人だけではない。自分の周りにいる弱いもんのことであった。
年上が年下見守り
友達の痛みは自分の痛みだった
これは私だけでなく、当時の子供は皆このように大人から教えられていたように思う。小学生の頃、学校が終って家に帰るなりランドセルを放り投げ遊びに行った。草野球やかくれんぼをして遅くまで遊んでいたが、いつも年上のものが年下のものを見守っていた。また、運動会の前になると足の遅い友達の練習に付き合う子供もいたし、友達が教室に残され補習をしている時に校庭の片隅で終るのを待っている同級生もいた。友達の痛みは自分の痛みでもあった。すでに小学生の頃には弱い者を守り助けるということが身についていたのだ。
最近、電車に乗って嫌な思いをすることがある。一つは化粧をする女性。素顔のまま乗り込んできて降りる前には完全な別人に仕上げるのであるが、周りの人の迷惑を考えたことがあるのだろうか。思いやりの欠片(かけら)もないのである。
そしてもう一つ。年寄りが前に立っているのに、優先席をわが物顔で占領する若者たち。昔の電車には優先席など無かったが、年寄りや体の不自由な人に席を譲るのは当たり前のことであった。思いやりの心はどこに行ったのだろうか。情けないことである。
競争社会で弱肉強食の世の中 見苦しい顔も
現在は競争社会で弱肉強食の世の中である。テレビの座談会を見てもそうだが、自分の考えと異なる相手に対し、口角泡を飛ばさんばかりの舌鋒(ぜっぽう)で相手を論破する識者を多く見かける。能弁は結構であるが得てして喋(しゃべ)りすぎる。口下手な相手を思いやる心はないのだろうか。言い負かして勝ち誇ったような顔は見苦しい。朴訥(ぼくとつ)な話し方でもかまわない。それよりも我々は良い議論を聞きたいのである。
贅沢を戒め地味で控えめに
また、この前テレビを見ていて驚いた。有名な学習塾でのことだ。アナウンサーが小学生に将来何になりたいかと聞いたところ「いい学校に行って金持ちになりたい。何でも好きなことができるから」と答えていたのを見て愕然(がくぜん)とした。たぶん、周りの大人たちがそのようなことを話していると思うのだが、昔の子供はお金より大事なものがあると教えられた。思いやりもその中の一つであった。京都の旧家では贅沢(ぜいたく)を戒め地味で控えめにしていたものだ。理由はいろいろあったと思うが、一つは弱いもんに対する思いやりであったと思うのである。
私の作る御所人形は、江戸時代に宮中をはじめ上流階級の人に可愛(かわい)がられた人形である。そのため一番に求められるのが品格である。「品格をだすのは思いやりの心」と祖父から言われて40年が経った今、やっとその意味がわかってきたように思う。思いやりとは、止め処もなく広く大きいものだということである。
<日本の暦>
花まつり
生まれ落ちると同時に、天地を指さし「天上天下唯我独尊」と宣(のたま)ったというお釈迦(しゃか)さま。生誕を祝う行事が灌仏会(かんぶつえ)(花まつり)です。
毎年4月8日の行事ですが、地方によっては5月8日に催す所もあります。花で飾った花御堂の中に、半裸姿の誕生仏を置き、甘茶をかけてお参りする形が定着しています。
お釈迦さまと縁の深い白象(はくぞう)を乗せた山車を、園児たちが引いてお祝いする姿を見かけることも。
二十四節気の「清明」(ことしは4月4日)をすぎたばかりのこの時期は、桜を愛でる「花まつり」も各地で開かれ、野にも街にも晴朗の気があふれます。
<リレーメッセージ>
■タンスの中の忘れもの
「はんなりした、ええおべべどすなあ」。ちょっと外に出ると、ご近所の方からよく声をかけていただけた。それは魔法のように私の心を温めた。誉(ほ)められたのはきものだというのに、私本人まで誉められたような気がしたのだ。
けれど、今にして感じるのは、ご近所の方が誉めてくださったのは、きものや私だけではないということ。
きもの1枚には染めや織りの卓越した技が凝縮されている。そして洋装とちがい、きものは「洗いはり」、つまり、きものを解き仕立することで寸法直しをすることができる。1枚のきものが、代を超えて継承されていくことが、わずか数十年前まではあたりまえのことだった。
嫁入りする娘に持たせるきものは、母からの贈りものであり、そしてそれはまた子へと贈られてゆく宝物。
そう、1枚のきものを誉める、ということは、きものを通してつながってゆく時の流れへの敬意の表れでもある。それは今となってはこの上なく贅沢(ぜいたく)で豊かなこと。
タンスに大切なきものを忘れてはったら、それこそ、もったいない。冥加(みょうが)に悪おすえ。
(次回のリレーメッセージは、俳優の星由里子さんです)