日本人の忘れもの 京都、こころここに

おきざりにしてしまったものがある。いま、日本が、世界が気づきはじめた。『こころ ここに』京都が育んだ文化という「ものさし」が時代に左右されない豊かさを示す。

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京都発「日本人の忘れもの」キャンペーンプロジェクト

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第35回3月4日掲載
箸の始末
始末の手間までかけない気遣い
たとえ割箸でも粗末に扱えない

すぎもと・ひでたろう

フランス文学者
杉本 秀太郎 さん

1931年京都市生まれ。京都女子大教授を経て88年、新設の国際日本文化研究センター教授に就任。日本芸術院会員。文芸・評論家、エッセイストとしても活躍。京都を代表する京町家・杉本家住宅(重文)の当主でもある。「『平家物語』を読む」「『徒然草』を読む」など著書多数。

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 遠い少年の日におぼえた詩が、ある夜、くちびるに甦(よみがえ)った。


 皿にはをどる肉さかな

 春夏すぎて

 きみの手に銀のふおうくはおもからむ

 (萩原朔太郎『純情小曲集』「再会」)


 少年には未知にひとしい洋食皿の銀のフォークが、なぜかしら、もう過ぎ去って二度と見られぬもののノスタルジーに染まっていた。あのときの寄る辺(べ)のないさびしさは、どこから湧いて出たのだろう。

フォークには
ノスタルジーを
少しもおぼえず

 それから二十年後、フォーク、ナイフを操ってする食事を一年つづけることになった。西洋の食物が私には少しも苦痛ではなく、一年のあいだ、和食をたべたいと思ったことがない。「郷(ごう)に入(い)れば郷にしたがえ」ということわざを私は疑わなかった。そして達者な胃腸を授かったのをありがたく思っていた。変なやつだ、箸で食う物の味を忘れたのかとなじられても、素知らぬ顔でとおした。

 卓上にフォーク、ナイフ、スプーンと一緒に割箸もセットしているレストランが、今では珍しくない(もちろん日本でのこと)。そんなとき、私はフォークにノスタルジーなど少しもおぼえず、割箸だけを手にとる。箸は使いようで牛肉をさく一方では毛すじほどの魚の骨をつまみ出すこともできる。

 その箸のこと、といっても、使ったあとの箸の始末のことだが、昔(といっても私の少年の頃)と今では、ずいぶんな変わりようである。家庭の食卓には、それぞれの箸箱がそれぞれの前に置かれていて、「一つ釜のめしを食う」という絆が一方に強く意識されていても、他人(ひと)の箸は使うべきものではなかった。

食卓の作法には一種の信仰に由来する部分が…

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 日に三度、口をつけ、歯にも舌にも触れる箸には、それぞれの身体から染み出るものが移っている。それは身体以上の何かであり、家族同士であっても、ひとの箸には何かしら「こわい」ものがくっ付いているとする暗黙の心理が働いていたのだろう。食事の作法のうちには、たぶんこうした一種の信仰に由来する作法が加わっていた。だから、家に招いたお客が使った箸は、あとでぞんざいに捨ててはいけないもの、特別ていねいに洗ってから片付けるべき、多少は厄介なものなのだった。

 与謝蕪村にこんな俳句がある。明和期(一七六四-七二)の作だそうである。


 薬食(くすりぐい) 隣の亭主 箸持参

今の私たちは「薬食」にかかり放し

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 薬食は猪、鹿などの肉を食べて滋養をとること。今の私たちは明け暮れこの「薬食」にかかり放しである。蕪村は京都の仏光寺通烏丸西入ル(下京区)南側の路次のなかに長らく住み、そこで天明三年(一七八三)に六十八歳で没したが、猪(しし)なべをすればとなりに匂(にお)いがながれ入り、わかってしまうので気兼ねして、食べにさそうとやってきたとなりの主人は自分の箸を持参した、というので、名吟の多い蕪村にしては駄句に類するにせよ、世の風俗風習を季(冬)とかさね写しているから俳諧にはちがいない。隣人がわざわざ箸を持参したのは、せめて箸のあと始末の手間までかけまいという気遣いからである。私たちはもうすっかり忘れているが、たとえ割箸であっても、箸はうっかり粗末には扱えないものなのであった。

<日本の暦>

春の雪

 春の雪が、侍たちの鮮血に染まって…。幕府大老、井伊直弼が江戸城桜田門外で暗殺されたのは万延元年3月3日(1860年3月24日)でした。これを万延ではなく、安政7年とする説があります。

 旧暦時代は、改元がひんぱんにあり、事件が起きたこの年も3月18日に改元、安政から万延に年号が変わりました。直弼が討たれた時点ではまだ安政7年3月3日でした。

 「改元のあった年は年初に戻って新年号に読み替える」習慣は昔からあり、どちらが正しいとも言い切れません。

 季節はずれの「春の雪」には凶事の予兆、好事の前触れと、こちらも昔から2説あるようです。

<リレーメッセージ>

桑原専慶流副家元 桑原 櫻子さん

■花と料理

 花と料理を教えて20年。江戸時代から続くいけばなの家に生まれ、花をいけて伝えていくだけでも大変なのになぜ料理まで教えるのかと人からもよく聞かれるし自分でもそう思う。どちらも準備や後片付けが大変で、意外と重労働だ。

 幼い頃から祖父母や両親が忙しくお稽古場を回る姿を見て、延々と続くこの仕事を乗り切るには、栄養のある食事を摂らなければと強く思うようになった。家族のご飯を作る時、皆の喜ぶ顔を想像する。そして皆がご飯を楽しみに帰ってくるのが作る励みになる。いけばなも誰かを思っていけると、優しい花になる。

 花と料理は共通点が多い。どちらも生き物を扱うので自分の身体が健康でなければ向き合えない。特に京都に住んでいると四季の恵みを受けているという実感を季節の花や野菜、魚からも感じ取れる。料理を習いに来て下さる皆さんには、先(ま)ずは花をいけてようこその気持ちを感じてもらいたいと思っている。そして心を込めて作った料理は美味(おい)しいだけでなく旬のものを戴(いただ)ける有り難さを感じたい。

 自然の生み出したものと人の創り出したものとの調和は素晴らしいと思う。ごく普通に普段の生活の中で花と料理を通して豊かな心を伝えていきたいと願っている。


(次回のリレーメッセージは、桑原専慶流副家元の桑原櫻子さんです)

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