日本人の忘れもの 京都、こころここに

おきざりにしてしまったものがある。いま、日本が、世界が気づきはじめた。『こころ ここに』京都が育んだ文化という「ものさし」が時代に左右されない豊かさを示す。

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京都発「日本人の忘れもの」キャンペーンプロジェクト

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第33回2月19日掲載
月を愛でる
平安の昔思わせる京都盆地の夜
古人は心ゆくまで月を楽しんだ

あさみ・かずひこ

成蹊大文学部教授 浅見 和彦 さん

1947年東京都生まれ。東京大卒。専門は古代中世日本文学、地域文化論、環境日本学。昨年、京都で発足した「方丈記800年委員会」委員長代行も務める。著書に「方丈記」(ちくま学芸文庫)、「東国文学史序説」(岩波書店・近刊)など。

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 全国的な異常寒波、大雪、雪崩。日本列島が震え上がっている今日このごろ、全く季節はずれの話題で恐縮だが、月見についてお話をさせていただきたい。
 京都には月の名所が多い。


 月はおぼろに 東山
 霞む夜ごとの 篝火に


(祇園小唄)とうたわれた東山を始めとして、三方を山に囲まれた京都盆地は観月の舞台にめぐまれている。黒々とした山の稜線、黒闇色の空にぽっかりと浮かんでいる月の姿を見ていると、時空をこえて、ふと平安のいにしえにいるような錯覚にとらわれる。

福原遷都で居残った人々が伏見、広沢へ…

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 時は源平の争乱のさなか、平清盛によって突然強行された福原への遷都。福原は今の神戸である。福原の新しい都に移住していった人々は中秋の名月を見ようとして、近郊の須磨、明石、住吉、難波、高砂の各地をめざした。京都に居残った人々は伏見、広沢へと足を運んだ。

 なぜ、伏見、広沢なのか。どうして伏見、広沢が都人が集う月の名所だったのだろうか。伏見はもちろん今の京都市の伏見、広沢は嵯峨野の広沢である。かつて、昭和の十年代くらいまで伏見には巨椋池という大きな湖があった。広大な池で人々に逍遙の地として愛されていた。名月の湖面に映る姿がまた見事で賞美のまととなっていた。

忘れられた
「月明かり」の
楽しみ方

 しかし残念なことに、戦前、食料増産をはかるため、全域が干拓され、今はなくなってしまった。今となっては惜しいこと限りない。

 それでももう一つの広沢には広沢池が現存する。池の端には美しいたたずまいの遍照寺山がひかえ岸辺には葦も群生し、時折、鳥たちの啼き声が響く。一帯はいつも静寂につつまれている。

 満月の夜、池の周辺を散策していると、中天の明月は皎々と光り、池に映った水月はわずかな波動でかすかにゆらめく。かつて人々は「月のぼれり」とあれば、池に小船を出し、水に棹さし、ゆっくりと心ゆくまで月を楽しんだ。空の月に水の月。昔の人は何と贅沢な月見をしていたのだろうか。こんな月見はもはやない。

ロウソクの明かりの夕食で“家族”を感じた

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 考えてみると、現代人は月を見る機会が大きく減ってしまったのではないだろうか。現代は夜といえば、イルミネーション、ライトアップが相場のようにもてはやされ、月明かりを楽しむ、星明かりを楽しむというならいは、もうほとんど忘れ去られてしまっている。夜の楽しみ方、味わい方というものが、近年、大きく変わってしまったような気がする。

 昨年三月の大震災直後の東京圏ではいく度も停電が実施された。暗くてとても不便だった。しかし、ロウソク一本の明かりで食べた夕飯は“家族”という空気をあらためて感じさせてくれたし、外灯もない、信号もない真暗闇の町は何か、日本人が忘れてしまった“夜”というものを実感させてくれた。

<日本の暦>

グレゴリオ13世

 4人の日本人少年使節と外国人宣教師らを乗せた船が、長崎からローマに向け出港したのは本能寺の変4カ月前の、1582年2月20日でした。天正遣欧使節と呼ばれます。

 4少年は3年後、バチカンに至りローマ法王グレゴリオ13世に謁見(えっけん)します。この時、カトリック信徒としての少年たちは出発時より10日分だけ、老けていました。

 なぜか-。法王は少年たちが旅の途上にあった82年10月に歴史的改暦を行っていました。1年で約11分遅れるユリウス暦に替え、26倍正確なグレゴリオ暦を採用したのです。私たちが現在、使っている新暦です。

 遅れを補正したため、暦の日付は少年たちの出港時に比べ、10日も先に進んでいたのでした。

<リレーメッセージ>

茶道武者小路 千家家元夫人 千 和加子さん

■京都の美味しい水

 「茶の湯」に良い水は不可欠です。我庵でも昔からの邸内の井戸で日々の御茶のための水を汲(く)んでおります。この地下水脈は京都市を南北に渡る小川通に付随しており、京の四茶家はこの上に位置しております。

 この水は沸騰させて使う事で飲料としての許可が降りており、幾度となくふつふつと沸かして頂くと美味しくやわらかい口当たりで、茶の湯の水には最適です。

 ほかには露地や家の廻りの打ち水として、また庭の草木への水やりとして使っております。自然の水は植物にやさしく苔(こけ)なども生き生きと元気に育ちますし、水温は季節を問わず一定です。

 京都の下は大きな水がめが存在すると聞きました。昭和30年代までは家々はもちろん、各町内に共同で使う井戸がありました。水道の普及とともに衛生面や建設工事などの影響で使えなくなったり枯れてしまいました。生水を飲料にする事は出来なくても他に使い道はいろいろあります。

 災害の事も考えたりすると(その時必ず使える保証はありませんが)復活出来る井戸は再生出来ないでしょうか?問題は山々あるとは思いますが、新しい町のコミュニケーションの場、「井戸端会議」復活も悪くないと思うのです。


 (次回のリレーメッセージは、ジュエリー作家の松永智美さんです)

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