バックナンバー > 第28回 一期一会のこころ
- 第28回1月15日掲載
- 一期一会のこころ
一回きりでない日常的関係を
一瞬に凝縮して心をつなぐ
京都市芸術文化協会理事長
村井 康彦 さん
1930年山口県生まれ。京都大文学部卒、同大学院博士課程修了。京都市歴史資料館長、京都市美術館長など歴任。2011年から現職。国際日本文化研究センター、滋賀県立大各名誉教授。著書は「古代国家解体過程の研究」など多数。
あなたの座右の銘はなんですかと問われたら、紫式部が『源氏物語』蛍巻のなかで、光源氏の口をかりて述べている言葉-「日本紀などはただかたそばぞかし。これら(物語)にこそ道々しく詳しきことはあらめ」(歴史の書にはわずかのことしか書かれていない。しかし物語にこそ世の中の道理がくわしく語られているのだ)を、歴史研究者の一人として自戒の念をもって持ち続けている、と答えてきた。式部の言は、「歴史と文学」についての、今日でも通用する論といってよいであろう。
人々の寄り合いが
気持ちよく成り立つために
取り換えたわけではないが、最近好きな言葉は「一座建立(いちざこんりゅう)・一期一会(いちごいちえ)」である。人々の寄り合いが気持ちよく成り立つためには一期一会の思いが大切である、という意である。利休の弟子であり、かつ、同僚として秀吉に仕え、利休賜死の十一カ月前、秀吉に惨殺された山上宗二の茶書(『山上宗二記』)に、茶会における亭主・客人の心得として書かれた一文に見える言葉だが、最近この四字熟語をいろいろな場面で見かけるようになった。そのことになんの異論もないが、気になるのは、使い方がいささか安易と思われる点である。
「決定的瞬間」や「奇遇」など 気になる使われ方
たとえば、ある写真展での評に、撮影には一期一会の出会いを持つことが大切である、とあった。ここでの一期一会はシャッターチャンスの「決定的瞬間」のことのようだ。
また近頃よく見かける使われ方。「この前、誰それとニューヨークの雑踏の中でバッタリ出会った。まさに一期一会の出会いだったよ」といった類。この一期一会とは「奇遇」のことであろう。
たしかに一期は人間の一生、一会は一回会うことだから、一瞬の出会いや奇遇は本人にとってまさしく一期一会であろう。使い方が間違っているわけではない。しかしそれは十六世紀、この言葉が歴史的名辞として登場した時の使われ方とは違うのである。
山上宗二はこう言っている。
茶会では一座建立を心掛けることが大事である。そのためには、毎日寄り合える間柄であっても、一生に一度の会のように思い(明日は会えないかも知れない、そう思うことで)、相手を敬い大事にすることが大切である。
つまりここで求められているのは一回きりの関係ではなく、むしろ日常的な関係のあり方であり、それを一瞬に凝縮することで心をつなぐ、つながり合うというものだった。そしてこのつながりは、家族の絆、地域の人々の絆にも通じるものではなかろうか。
世界の心を打った助け合い 結び合う姿
まさしくそれは、昨年未曾有の大震災で被災された方々が、助け合い結び合われたあの姿こそ、一期一会そのものであり、その極致だったと思う。それゆえに、日本人のみならず、世界の人々の心を打ったのである。
私はいま改めて、一期一会の持つ意味をかみしめている。
<日本の暦>
改暦140年
明治政府が、それまでの旧暦を現在の新暦に改めて、ことしで140年になります。「来る12月3日を以て1873(明治6)年1月1日とする」。改暦の布告は明治5年11月9日、突然に飛び出しました。
このタイミングで改暦すると、新・旧暦の性質上、官吏の俸給を2カ月分支払わなくて済む「曲芸」が可能でした。同時に旧暦の六曜(大安など)、十二直といった暦注は迷信とされ、使用が禁じられました。
京都・南座で3日から開演中の前進座公演「明治おばけ暦」(山本むつみ作)は、改暦をめぐる当時の世相を描いた興味深いお芝居。140年前、庶民が被った迷惑と混乱は相当のものだったようです。
<リレーメッセージ>
■分業コミュニケーション
新しく入った妹弟子が四代目に色の調合の仕方を聞く。「アイニナメルホドシューウッテ」。四代目の返答に、まるで初めて聞く外国語のように、ぽかんとした妹弟子の顔。助け舟を出す。
「藍色に、舐(な)めるほど僅(わず)かな朱をうつんやで」。それでも、相変わらず浮かない表情。「シュヲウツ、って何ですか?」
仕事をしていると、おのずとそこで通用する表現を身につける。はじめは、何を言っているか分からなくても、一緒に過ごしているうちに、理解できるものなのだろう。また、伺う間合いや「ちょっと」などの形容される分量なども、推し量れるようになる。
私が伝統木版画の世界に入って十年になる。先代からの継承と分業で成り立っている伝統工芸は、コミュニケーションの能力がとても重要だ。伝えあうのをわずらったり、時にその意味の相違が失敗をまねいたりすることを経験しながら学んでいく。
決して腕の技だけで成立しないからこそ、伝統工芸は今に根強くあるのだろう。京都に息づく伝統とは、とても人間くさいものである。
(次回のリレーメッセージは、アートプロデューサーの武智美保さんです)