日本人の忘れもの 京都、こころここに

おきざりにしてしまったものがある。いま、日本が、世界が気づきはじめた。『こころ ここに』京都が育んだ文化という「ものさし」が時代に左右されない豊かさを示す。

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第27回1月8日掲載
「時代劇」を守る
時代考証に精通した職人たち
圧倒的地の利が残る京都こそ

なかむら・あつお

俳優・作家
中村 敦夫 さん

1940年生まれ。東京外国語大中退。劇団「俳優座」からテレビ界へ。72年正月から放映の時代劇「木枯し紋次郎」主演で脚光を浴びる。テレビキャスターなどで活躍後、98年から参院議員1期。同志社大大学院講師など歴任。近著に「簡素なる国」。

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 京都は私にとって、第二の故郷のようなものだ。

三大撮影所が残り
過去の栄光を
誇っていたのだが

 一九七二年放映の「木枯(こがら)し紋次郎」によって、私の名前は全国区になったが、その撮影は旧大映京都撮影所で始まった。当時、太秦には、大映、松竹、東映の三大映画撮影所があり、時代劇のメッカとして、過去の栄光を誇っていた。しかし、映画産業の斜陽は顕著で、従来のシステムが崩壊しつつあった。

 直接的な原因は、テレビの普及で、映画館から客足が遠のいたことである。もう一つは、ブロック・ブッキングという硬直化した配給系列が、魅力ある作品の登場を拒んだことにある。

 大手映画会社は当初、テレビ映画やドラマを軽視した。しかし、時代の変化には逆らえず、確実に収入の計算できるテレビ界へ、雪崩をうって参入するようになった。「木枯し紋次郎」も、そうした流れの中の一作品だった。

 ところが、撮影開始後二カ月で、いきなり大映が倒産した。劇場用映画の不入りや、球団事業などの多角経営が行きづまった結果だった。撮影所は労組に占拠され、私たちはレンタル・スタジオに引っ越した。

 「紋次郎班」のスタッフは、美術の西岡善信を長として、製作プロダクション「映像京都」を立ち上げた。森一生、三隅研次などの有名監督たち、宮川一夫、森田富士男といったカメラマン、照明、大道具、小道具、衣裳(いしょう)、結髪に至るまで、それぞれのプロフェッショナルが参加した。多くが、「羅生門」「地獄門」など、国際的映画賞作品を手がけた職人たちだ。

伝統は職人の魂に引き継がれるのだ

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 「木枯し紋次郎」の骨格を創造したのは市川崑監督だが、シリーズを支えたのは映像京都だった。彼らの職人魂はすさまじく、担当の仕事には精魂を使い果たした。例えば、セット付きの職人は、武家屋敷の廊下を黒光りするまで磨き、自分が納得するまでカメラを廻(まわ)させなかった。どのパートも時代考証に精通しており、彼らなしには本格的な時代劇を創(つく)ることは不可能だった。

 伝統は、形に残るのではなく、職人の魂に引き継がれるのだ。

 大映はなくなったが、太秦の職人たちは、テレビ時代劇全盛時代を迎えて生き延びた。松竹は「必殺シリーズ」を、東映は「水戸黄門」など、長寿番組を中心に繁栄した。

衰退続く時代劇 文化なのにこれでいいのか

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 京都には、小一時間も走れば、山も川もある。街には寺が無数にあり、武家屋敷や城の一部として利用できる。つまり、撮影にとって、圧倒的な地の利がある。

 古い手作りの産業も残っており、職人の技術や文化も受け継がれている。太秦には、仕出しと呼ばれるエキストラが数百人も住んでおり、彼らは自分で鬘(かつら)を付け、衣裳を着る。芸者、長屋の婆(ばあ)さん、大工、物売り、何でもできる。要するに、京都は時代劇にとって、環境と人材の宝庫なのだ。

 それなのに近年、テレビ時代劇は激減していった。

 ついに今年、民放には一本のレギュラーもない。映像京都も解散した。時代劇は文化である。この国は、これでよいのだろうか。

<日本の暦>

壬辰(じんしん)

 2012年が明けました。ことしは辰年ですが、十干十二支でいうと壬辰(みずのえ・たつ)。西暦を60で割って32余る年が壬辰です。

 正確には、ことし1月23日(旧暦1月1日)から来年2月9日までに当たります。過去の壬辰年を振り返ると「文禄の役」(壬辰倭乱)があった1592年を除けば、平穏な年がほとんどです。

 壬辰の「壬」は草木が新しい芽をはらんで膨らむ形、「辰」は草木が伸びる姿-と解釈する説が多いようです。災害からの復興を順調に果たし、暮らしも、政治、経済も新生へ向かう年としたいものです。

<リレーメッセージ>

フラワーコーディネーター(プーゼ代表)・浦沢 美奈さん

■季節を感じる暮らし

 椿(つばき)、すみれ、藤袴(ふじばかま)。子供の頃から我が家にはいつも一輪の花が活(い)けられていました。足の指先を冷たく感じた初秋の夕暮れ時や、鳥の鳴き声が近く聞こえた初春の朝には花が変わっていて、季節の移ろいを思いました。「季節感のない女性はあきまへん」。御所に仕えていた曾(そう)祖母に厳しく言われていた母から私が受け継いだのは、四季を愛(め)でる習慣です。

 大人になって、私はパリのフラワーアレンジメントに感動し、学びに熱中しました。やがて京都で再現しても輝きが少ないことに悩みましたが、「季節」を加える手法を見出し創作の世界が広がりました。あこがれと習慣を組み合わせたプーゼの花は、昨年イタリアの雑誌から取材を受けました。「よく知っているスタイルなのに繊細な色使いにより初めて出会ったと感じるエレガンス」。季節を愛でる心はヨーロッパの方々にも喜んでいただける個性となって伝わったようです。

 花を飾ると家族の会話が弾みます。季節の行事が子供たちの心に刻まれ、温かい絆が生まれます。家族のつながりと美意識。私は暮らしの習慣からとても大切なことを受け継いだのだと感じています。


(次回のリレーメッセージは、竹中木版 竹笹堂 六代目摺師の原田裕子さんです)

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